「フランス革命戦争」の版間の差分

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神聖ローマ皇帝[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]も決断を迫られていた。レオポルト2世はフランス国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の王妃[[マリー・アントワネット]]の実の兄として、革命が過激化していくにつれて親族の身に迫る危険を看過しえなくなっていたのである。[[1791年]]8月27日、レオポルト2世は亡命貴族の[[シャルル10世 (フランス王)|アルトワ伯爵]](ルイ16世の弟)の仲介のもと、プロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共同で[[ピルニッツ宣言]]を発表した。これは、フランス王家の安全を守るため、必要があれば革命に介入する用意があるとするものであった。
 
レオポルト2世自身は必ずしも戦争を望んではいなかったと言われるが、フランス革命政府においてこの宣言は深刻な脅迫として受け止められた。さらに、[[南ネーデルラント|オーストリア領ネーデルラント]]([[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]])や[[ドイツ]]における王党派亡命貴族による扇動活動も革命政府を刺激するに十分であった。フランスとオーストリアとの間には[[アルザスロレーヌ]]の帰属問題という積年の対立もあった。こうしたことを背景に、当時外務大臣の地位にあった{{仮リンク|シャルル・フランソワ・デュムーリエ|fr|Charles-François Dumouriez|label=デュムーリエ}}らの主導のもと、フランス[[立法議会]]は[[1792年]]4月20日、オーストリアへの宣戦布告を決議した。
 
== 経過 ==