「フェリペ3世 (スペイン王)」の版間の差分

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'''フェリペ3世'''('''Felipe III''', [[1578年]][[4月14日]] - [[1621年]][[3月31日]])は、[[スペイン]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]・[[シチリア王国|シチリア]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の王(在位:[[1598年]] - 1621年)。[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]と最後の妻である[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]の娘[[アナ・デ・アウストリア|アナ]]との間に生まれた末子である。ポルトガル王としては'''フィリペ2世'''。
 
== 概要 ==
祖父カルロス1世(神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]])は世界最大の植民地帝国を築いた人物、父[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]は[[スペイン帝国]]に[[スペイン黄金世紀|黄金時代]]をもたらした人物である。生まれつき病弱であったため、年老いてゆく父は息子の将来に不安を抱いた。「怠惰王」と呼ばれたフェリペ3世の23年に及ぶ治世を取り仕切ったのは、首席大臣のレルマ公爵あるいはウセダ公爵であったが、彼らはこの大帝国の国政を担うにはいささか力不足であり、フェリペ2世が残した[[世界帝国]]は衰退への道を歩み始めることとなる。[[1609年]]、スペイン全土から[[モリスコ]]([[キリスト教]]に改宗した[[ムスリム|イスラム教徒]])の[[モリスコ追放|追放]]が行われた。その数は27万人に及び、ほとんど農民であったため、スペイン農業は大打撃を受け、深刻な食糧不足に陥ったといわれる。なお、[[1615年]]1月30日には、[[慶長遣欧使節]]の[[支倉常長]]と面会している。
なお、1615年1月30日には、[[慶長遣欧使節]]の[[支倉常長]]と面会している。
 
== 子女 ==
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これは、祖父カルロス1世以来の[[フランス王国|フランス]]との対立や、父フェリペ2世の非妥協的宗教政策、ポルトガル併合が関係する。まず当時、名門スペイン王室と[[貴賤結婚|臣下や格下の諸侯との結婚]]などありえなかった。しかし、ヨーロッパの王侯は次々と[[プロテスタント]]に改宗していたが、彼らとの結婚もできなかった(異端は異教徒より悪質とされた)。[[カトリック教会|カトリック]]教徒の王室として残るのは、フランス王家と両ハプスブルク家、ポルトガル王家だったが、フランス王家とは敵対しており、ポルトガル王家はフェリペ2世が継いで合一した。結局、選択肢はオーストリア・ハプスブルク家との近親結婚のみとなった。のちにフランス王家からも王妃を迎えることになるが、やはり選択肢が2家しかないので、近親結婚は解消されなかった。
 
後に[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]も似たジレンマを抱え込んだ。<!--
 
== 脚註 ==
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{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==-->
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Philip III of Spain}}
*[[スペイン・ハプスブルク朝]]
*[[慶長遣欧使節]]
{{-}}
 
 
{{Commonscat|Philip III of Spain}}
 
{{先代次代|[[スペイン君主一覧|スペイン王]]<br />[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル王]]<br />[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王<br />シチリア王]]|[[1598年]] - [[1621年]]|[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]|[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]}}
{{先代次代|[[アストゥリアス公]]<br />ジローナ公|1582年 - 1598年|[[ディエゴ・デ・アウストリア|ディエゴ]]|[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]}}