「チャールズ・ダーウィン」の版間の差分

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=== ビーグル号航海 ===
[[ファイル:Charles_Darwin_by_G._Richmond.jpg|thumb|若き日のダーウィン。航海から帰国後、30歳前後と見られる。]]
1831年にケンブリッジ大学を卒業すると、恩師ヘンズローの紹介で、同年末に[[イギリス海軍]]の[[測量船]][[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]に乗船することになった。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型の[[ブリッグ船]]は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対したが、叔父ジョサイア2世の取りなしで参加を認めた。専任の博物学者は他におり、[[ロバート・フィッツロイ]]艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなかった。しかし幾度か[[艦長]]と意見の対立があり、のちに「軍艦の中では、艦長に対して 通常の範囲で意見表明するのも[[反乱]]と見なされかねなかった」と述べている。また、航海では長年に渡り酷い船酔いに悩まされ続けた
 
ビーグル号は1831年12月27日に[[プリマス]]を出航した。南米に向かう途中に[[カーボヴェルデ]]に寄港した。ダーウィンはここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めている。そのあと南米東岸を南下し[[バイーア]]を経て[[リオデジャネイロ]]に立ち寄ると、正式な「艦の博物学者」<ref>当時の調査船では(すでに)、視覚的な記録を残す役割の画家(当時の画家は、現代のカメラマンのような役割)、博物学的見地から動植物の標本を集める役割を果たす博物学者、等々等々 いくつかの専門家が乗りこみ、役割の割り当てがはっきりしており分業体制で運用される、という規則になっていた。</ref>だった[[船医|艦医]]マコーミックが下船したため、非公式ながらダーウィンがその後任を務めることになった。ビーグル号が海岸の測量を行っている間に、内陸へ長期の調査旅行をたびたび行っている。[[モンテビデオ]]を経て出航からおよそ1年後の1832年12月1日には[[ティエラ・デル・フエゴ|ティエラ・デル・フエゴ島]]についた。ビーグル号はこの島から若い男女を連れ帰り、[[宣教師]]として教育し連れ帰ってきていたが、ダーウィンはフエゴ島民と宣教師となった元島民の違いにショックを受けた。フエゴ島民は地面に穴を掘ったようなところに住み、まるで獣のようだ、と書き記している。東岸の調査を続けながら[[1834年]]3月に[[フォークランド諸島]]に立ち寄ったとき、ヘンズローから激励と標本の受け取りを知らせる手紙を受け取った。