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'''池田 恒興'''(いけだ つねおき)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[
[[尾張国|尾張]][[犬山城]]主、[[摂津国|摂津]][[兵庫城]]主、[[美濃国|美濃]][[大垣城]]主。通称は'''勝三郎'''。紀伊守を自称、晩年に入道し'''勝入'''と号した。[[諱]]を信輝としている[[軍記物]]もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、尾張織田氏家臣・池田恒利の子として誕生。母は[[養徳院]]。
幼少の頃から[[小姓]]として織田氏に仕え、[[桶狭間の戦い]]<ref name="ikeda"/>、美濃攻略<ref name="kouki">『信長公記』</ref>などで戦い、[[元亀]]元年([[1570年]])の[[姉川の戦い]]で活躍し、犬山城主となり1万貫を与えられた<ref name="ikeda"/>。以後も[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]、[[長島一向一揆]]、[[槙島城の戦い]]<ref name="kouki"/>などに参陣、天正2年([[1574年]])には武田勝頼に奪われた[[明智城]]の押さえとして、東濃の[[小里城]]に入った<ref name="kouki"/>。恒興はそのまま織田信忠の付属であったが、天正8年([[1580年]])に、信長に抵抗し摂津[[花隈城]]に籠もる[[荒木村重]]を破り([[花隈城#花隈城の戦い|花隈城の戦い]])、その旧領を領した。
天正10年([[1582年]])3月、織田・徳川連合軍による[[甲州征伐]]では二人の息子を出陣させ、本人は摂津の留守を守るよう信長から命令された<ref name="kouki"/>。同年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、[[本能寺の変]]にて信長が家臣の[[明智光秀]]に討たれると、[[中国攻め]]から引き返した[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に合流。[[山崎の戦い]]は兵5,000を率いて<ref name="taikou"/>([[太閤記]]による。実際は兵力を2倍くらいに誇張されていると[[谷口克広]]は指摘している)右翼先鋒を務めて光秀を破り、織田家の宿老に列した。
織田家の後継を巡る[[清洲会議]]では、[[柴田勝家]]らに対抗して、秀吉・[[丹羽長秀]]と共に信長嫡孫の三法師([[織田秀信]])を擁立し、領地の再分配では摂津国の内[[大阪|大坂]]・[[尼崎市|尼崎]]・[[兵庫城|兵庫]]において12万石を領有した<ref name="taikou"/>。翌天正11年([[1583年]])の[[賤ヶ岳の戦い]]には参戦していないが、美濃国にて13万石を拝領し[[大垣城]]に入り<ref>『多聞院』</ref>、[[岐阜城]]に池田元助が入った。
天正12年([[1584年]])、[[徳川家康]]・[[織田信雄]]との[[小牧・長久手の戦い]]では
遺体は一時[[遠江国]]新居に葬られたが、後に京都・[[妙心寺]]の護国院に改葬されている。
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