削除された内容 追加された内容
脚注部、参考文献の整理など
23行目:
| 被害者 =
| 損害 =
| 犯人 = 少年K<ref>{{refnest|group="注釈"|当時17歳であったので実名非公開。ただし事件直後より、実名情報が流れ、国会議事録にも実名で記録されている。</ref>}}
| 容疑 =
| 動機 = [[中央公論]]誌に掲載された短編小説『[[風流夢譚]]』が皇室を冒涜しているから社長は謝罪しろというもの。殺意については不明。
36行目:
 
== 概要 ==
1960年11月上旬に雑誌『[[中央公論]]』に発表された[[深沢七郎]]の小説「[[風流夢譚]]」の中には、[[明仁|皇太子]]・[[皇后美智子|皇太子妃]]が斬首される記述や、天皇・皇后の首のない胴体が登場したり、[[昭憲皇太后]]が野卑な言葉を語ったり面罵されたりする記述などがあった。これを「[[不敬罪|不敬]]」であるとして[[右翼]]の抗議活動がすぐに起こったが、加熱する批判と擁護論争の中で、右翼団体[[大日本愛国党]]に所属していた少年Kが、中央公論社の社長宅に侵入して起こした殺傷事件が本件である。
 
この事件では犯人は翌日出頭したが、家政婦が死亡するという痛ましい事態となったことで、[[皇室]]に関する言論は一気に萎縮することを強いられた。この事件の後も続いた右翼の抗議に中央公論社は屈服。別の右翼関係者に調停を頼んで密室で示談にしたとされ<ref name="hori" >{{Harvnb|堀|1993|pp=}}</ref>、公に論調が変化したこともあって、言論界全体に大きな影響を与えた<ref>{{cite web| url=http://book.asahi.com/booknews/interview/2013051600001.html|title=天皇制、タブーへの転機 「風流夢譚」事件の影響を検証 | publisher= ブック・アサヒ・コム| date=2013-05-15 |accessdate=2016-03-22|author=塩倉裕}}</ref><ref name="白川">白川浩司「遙かなる『文藝春秋』 オンリー・イエスタデイ2 第8回」『[[週刊ポスト]]』2012年3月9日号、p.131</ref>。
 
戦後の言論の自由や皇室報道を論じる際の象徴的な事件であり、[[河上丈太郎]]傷害事件、[[岸信介|岸首相]]襲撃事件、[[浅沼稲次郎暗殺事件]]など、[[安保闘争]]で一時興隆した左翼運動に対抗するかのように、連続して起こった右翼のテロ事件の一つであった。{{seealso|菊タブー}}
44行目:
==背景==
=== 発端となった小説「風流夢譚」===
問題となった小説「[[風流夢譚]]」は『[[中央公論]]』[[1960年]]12月号に掲載された。12ページの[[短編小説]]で、挿絵は[[谷内六郎]]が描いた。作者の深沢七郎は[[中央公論新人賞]]出身だったが専属の担当編集者がきちんと決まっておらず、同社の「共有財産」的な存在状態であったという<ref name="上條">上條昌史「深沢七郎『風流夢譚』嶋中社長宅襲撃事件」『[[新潮45]]』2006年2月号、pp.78-81</ref><ref name="粕谷">「よみがえる45年前の記憶 『風流夢譚』事件が私に教えた『言論の自由』より大切なもの インタビュー粕谷一希」『別冊宝島 戦後ジャーナリズム({{Harvnb|事件史』宝島社、|2006年、|pp.=52-57}})</ref><ref name="gai9">「九 『風流夢譚』事件の余波」({{Harvnb|岡山|2014|pp=59-65}})</ref>{{refnest|group="注釈"|こうした中央公論社の宙ぶらりんな体制に、[[深沢七郎]]本人はもちろんのこと、[[中央公論新人賞]]選考委員だった[[伊藤整]]、[[武田泰淳]]、[[三島由紀夫]]たちも「深沢は立派な一本立ちの作家じゃないか」と周辺にこぼしていたという<ref name="gai9"/>。}}
 
この作品は、主人公が夢を見て、バスを待って主人公が皇居前広場へ行くと、皇太子夫妻が自分の「マサキリ」で首を切られる。天皇夫妻はすでに首がなく、皇太后と喧嘩するという[[シュール]]な内容で、それぞれの遺体の傍に落ちていた辞世の歌が講釈され、最後には主人公も辞世の歌を作ってピストルで自殺するところで夢から覚めて終わる<ref name="bookasahi">{{cite web| url=http://book.asahi.com/booknews/update/2013082200003.html|title=「風流夢譚」、電子化で解禁 半世紀前、テロ誘発した問題作 | publisher= ブック・アサヒ・コム| date=2013-08-20 |accessdate=2014-04-12|author=塩倉裕}}</ref><ref name="永江">永江朗「永江朗の充電完了4」『[[週刊文春]]』2013年10月10日号、p.119</ref>。{{main|風流夢譚#あらすじ}}
 
原稿は編集部から発注されたものでなく、深沢の持ち込み原稿で、長期にわたって保留されていたものであった。それが掲載された理由については病気から復帰した編集長[[竹森清]]の話題作りとも、原稿を読んだ[[三島由紀夫]]の推薦([[#三島由紀夫との関係|三島本人はこれを否定。後述]])とも言われるが、真相は不明である<ref name="粕谷" />。後に『[[文藝春秋]]』編集長となる[[白川浩司]]は、深沢の他の作品と比べて「肌理が粗い感じがした」と、掲載に疑問を呈した<ref name="白川" />。
 
作品に対する各所からの反響については、[[諧謔]]的に捉えた少数の肯定的意見もあったが、大半は、「悪趣味」、「反人道的」、「生理的」に受けつけられないといった批判的なものが多かった<ref name="pdf">{{Harvnb|長島|2011|pp=4-8}}</ref>。作品的な評価は、[[武田泰淳]]や[[石原慎太郎]]らが絶賛した(後述)。
作品の評価については賛否が分かれた。
 
====言論の暴力か否か====
発表は皇太子夫妻の御成婚の翌年で、巷では[[ミッチー・ブーム]]が起きていた。そのため作中に「ミッチー」という言葉も登場するが、その皇太子妃が「[[皇后美智子|美智子妃殿下]]」と、慈善活動などで人々の尊敬を集めていた[[昭憲皇太后<ref>]]が同名で{{refnest|group="注釈"|[[昭憲皇太后]]は[[明治天皇]]の后にあたり、作品発表時はすでに故人であった。</ref>が同名で}}、実名でそのまま登場する'''実名小説'''であったことも、問題を複雑にした。皇太子と皇太子妃の斬首された首が「スッテンコロコロ」と金属性の音を発して転がる描写や、首のない胴体を「人ゴミ」が見物するという描写、皇太后が下品な[[甲州弁]]で罵倒し合う描写は、かなり露骨で、一般読者からも批判が集中した。右翼の言う皇室への[[不敬罪|不敬]]とは別に、表現の自由が皇族の[[人権]]を侵害しているのではないか、と疑問が呈されたのである。
 
『[[朝日新聞]]』はコラム「[[天声人語]]」で処刑描写について「人道に反する」「夢物語だから許されるというものではなかろう」と非難したが<ref name="bookasahi" />と非難したが、一方で、評論家の[[吉本隆明]]は処刑されるのは「実在の人物とは似つかぬ」「人形」のように描かれているものであると擁護し、「月例の作品のなかでは最上等の部」と高く評価した<ref name="bookasahi" />。小説家の[[武田泰淳]]も作品を「痛快」と絶賛し、[[象徴天皇制]]の「非人間」性を指摘して、「天皇を無生物視している悪逆の徒は深沢氏ではなく」、「(深沢をひどい」と攻撃する人々の方だとした<ref name="bookasahi" />。当時まだ天皇批判を繰り返していた作家としての[[石原慎太郎]]は、全く逆の観点から、「無責任で役立たずな皇室に庶民は欲求不満を持っており、本作はその庶民の感覚としてポピュラーでソックもなく面白い」として、本作を賞賛した<ref>『[[週刊文春]]』1960年12月12日号</ref>{{refnest|group="注釈"|「ソック」とは拳骨の一撃、打撃のことで、「ソックもなく」は「ショックもなく」とほぼ同義。</ref>面白い」として、本作を賞賛した<ref>『[[週刊文春]]』1960年12月12日号</ref>}}。{{seealso|名誉毀損|表現の自由}}
<!--以下は事件後や当時の記憶を書いたものを含む-->
右翼は皇族が処刑され冒涜される描写に憤慨したが、「左慾(サヨク)という皮肉を込めた漢字表記からからも伺えるように、深沢は[[安保闘争|60年安保]]に見られた[[左翼]]運動で安易に語られた「革命」も[[パロディ]]としているのであり、右翼が怒ったような内容<ref>ではなかったと{{refnest|group="注釈"|右翼は風流夢譚を皇室批判の左翼小説であると断じていた。国会答弁でも「夢物語とはいいながら、国家の象徴たる皇室を誹謗し、暴動を示唆扇動するがごとくに思われる内容」と評されており、それが世間一般の認識だった。作家や評論家の認識とはその点で齟齬があった。</ref>ではなかったと}}、深沢と親交のあった[[嵐山光三郎]]は指摘した<ref name="上條" />。小説の内容は、革命を煽動したり賛美したりするのではなく、むしろその愚かさと恐怖を書いたという点については、事件後に『中央公論』編集者を引き継いだ[[粕谷一希]]も同様の解釈を述べた<ref name="粕谷" />。『[[噂の真相]]』元副編集長(同様に右翼の襲撃を受けた)[[川端幹人]]も「'''一切の現実的価値観の無化'''」が主題で、単なる反天皇小説ではなかったとの見解を述べていて<ref name="川端">{{Citation Harvnb|和書| last =川端 | first =幹人|author-link=川端幹人|series=ちくま新書 |year=2012|pages=53-56| title =タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 | publisher=筑摩書房|isbn=978-4480066459}}</ref>作家の[[永江朗]]もあくまで[[フィクション]]であり、荒唐無稽な話をすべてまともに受け取った右翼の反応の方を疑問視した<ref name="永江" />。[[渡邉文男]]が聞いた話によると、竹森清は「風流夢譚は[[ブラックユーモア]]なのに、右翼の[[原罪]]になってしまった」と語っていたという<ref>{{cite web| url=http://www.tanteifile.com/watch/2011/09/22_01/ |title=老舗出版社倒産――社長は「風流夢譚」事件の関係者 | publisher=探偵ファイル| date=2011-09-22 |accessdate=2014-04-15|author=渡邉文男}}</ref>と語っていたという
 
===右翼・保守派の反発 ===
世間の批判を受け姿を隠した作者深沢に代わり、作品掲載した中央公論社が批判の矢面に立つことになったが、右翼系の日刊紙『[[やまと新聞社#.E5.B8.9D.E9.83.BD.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.96.B0.E8.81.9E|帝都日々新聞]]』と[[野依秀市]]は中央公論社を非難し、[[11月28日]]には[[大日本愛国党]]の党員8名が、会社に押し掛けて謝罪文を要求した。
 
翌[[11月29日]]には[[宮内庁]]が「皇室の名誉を棄損するものではないか」と抗議する旨を発表し<ref name="shin">{{Citation Harvnb|和書| last = | first =|author=明治大正昭和新聞研究会 |year=2013|pages=318| title =新聞集成昭和編年史 昭和36年版 1 嶋中事件 |2013}}</ref><ref publishername=新聞資料出版"sato14">「第四章 著名人の時代」({{Harvnb|佐藤|2006|isbnpp=978110-4884102708143}}</ref>と抗議する旨を発表し、[[第2次池田内閣|池田勇人内閣]]の[[閣議]]では皇室に代わって宮内庁が民事訴訟を検討すべきだという意見も出て、これが多数派を占めたが、[[官房長官]]だった[[大平正芳]]が制して提訴には至らなかった<ref name="粕谷" />。このようなことから、翌日、竹森編集長が中央公論社を代表して宮内庁に訪れて迷惑をかけたことを謝罪することになり、宮内庁も訴訟を取りやめて、一応、決着をみた。
 
しかし、これだけでは右翼団体側の反発は収まらず、ポスターや立て看板、飛行機からビラを散布して、中央公論社への糾弾を続けた。また、[[国粋会]]、[[松葉会]]などの右翼団体は中央公論編集部へ抗議に押し掛けて威圧し、乱暴を働いた。
69行目:
 
== 事件 ==
当時の新聞や国会答弁などによると、事件のあらましはこうである<!--この節全体の出典--><ref name="shin" /><ref name="上條" /><ref name="粕谷" /><ref name="別冊宝島">原田信一、古橋健二「当世右翼の11大問題」『[[別冊宝島]] ({{Harvnb|平成元年の右翼』別冊宝島編集部・編、[[宝島社|JICC出版局]]、1989年、|p,=73}})</ref>。
 
1961年[[2月1日]]、少年K(当時17歳)は、[[新宿区]][[市谷砂土原町]]にあった[[中央公論新社|中央公論社]]社長の[[嶋中鵬二]]宅に忍び込み、応接間に勝手に上がりこんでいた。
79行目:
もう1人の家政婦は隣家に飛び込み、同家の電話で警察に急報した。この間、長女は泣きながら、二階で試験勉強中だった中学三年生の長男のところに駆け込んだ。長男が驚いて一階に降りた時には、犯人の少年はいなかった。わずか3分程度の間の出来事だったという。夫人は畳間にそのまま倒れており、全治2か月の負傷。被害者となった家政婦は台所の土間で虫の息で倒れているところを発見され、近くの病院に搬送する途中で死亡した。
 
逃走した少年は翌朝に[[浅草]]の[[派出所]]前で[[職務質問]]を受けて逮捕された。頭を丸坊主にしており、自首するつもりだったと言った。犯行の動機については「作者も悪いが、それを売って金を儲ける社長はなお悪い」と言ったという。所持していたハンカチには「天皇陛下万歳」と書かれていた<ref name="中村p22">{{Harvnb|中村智子『「風流夢譚事件」以後 編集者の自分史』田畑書店、|1976年、|p.=22}}</ref>。
 
== 事件後の顛末 ==
1961年[[2月3日]]、この事件に関して[[第38回国会]][[参議院]]で[[西郷吉之助]]議員が緊急質問し、当局の警備の手落ちを指摘。[[国家公安委員会委員長]]の[[安井謙]]は、右翼団体の抗議が中央公論社の本社に集中していたためにそちらに警備の重点を置き、社長宅の警戒が十分ではなかったことを暗に認めた。前年12月に前国会で浅沼事件に対する「暴力排除に関する決議案」を可決させたばかりであったが、同様の事件の発生にさらに6月に[[政治的暴力行為防止法案]]の成立を目指すことになるが、これは衆議院で通ったものの、参議院では野党との協議不調により閉会までに成立せず廃案となった。
 
[[2月4日]]、中央公論社は犠牲となった家政婦(息子が社員だった<ref name="kyotani">{{Harvnb|京谷秀夫『一九六一年冬 「風流夢譚」事件』平凡社ライブラリー、|1996年、p.|pp=141-147}}</ref>)の葬儀を[[社葬]]で行った。
 
[[2月5日]]、中央公論社は社告で「言論の自由」を呼びかける一方で、『風流夢譚』を'''掲載に不適当な作品'''であったと反省して皇室と一般読者にお詫びして事件の端緒となったことを遺憾とする「ご挨拶」を、同社の名義で新聞に出すという混乱を見せた。言論の自由を守れというジャーナリズムの掛け声に賛同するように見せながら、実際的には皇室話題の[[自主規制]]に大きく舵を切っていた<ref>{{cite webHarvnb| url=http://www.initiative.soken.ac.jp/journal_bunka/080220_nezu/nezu.pdf根津| format=pdf|title=編集者粕谷一希と『中央公論』-「現実主義」論調の潮流をめぐって-| publisher= [[総合研究大学院大学]]文化科学研究科| date=2008-03-22 |accessdate=2014-04-14|author=根津朝彦}}</ref>。
 
[[2月6日]]には、事件前に提出されていた辞表が受理され、竹森前編集長が退社した。一方で、会社には事件前よりもさらに右翼が押しかけるようになり、[[佐郷屋留雄]]が社内で椅子を振り回して暴れるなどした<ref name="粕谷" />。
 
同日深夜には作者の深沢七郎が記者会見を開いて涙を流しながら謝罪した。深沢は「下品なコトバ」を小説に使い「悪かったと思います」と述べて、護衛の刑事と供に姿を消した<ref>{{Harvnb|佐藤|2006|loc name=}}<"sato14"/ref>。深沢は右翼の襲撃を避けるためにホテルに潜伏した後、[[北海道]]や[[広島県]]など各地を転々として、[[1965年]]まで5年間、放浪生活を余儀なくされ、そのイメージからいつしか放浪の作家と呼ばれるようになった<ref name="白川" /><ref name="上條" />。大江健三郎にも同様にしばらくは警護がつけられるようになった。
 
[[2月7日]]、社告を否定し、嶋中社長名義で新聞に改めて「お詫び」だけを掲載した。中央公論3月号にも同様のものが掲載された。被害者であるはずの同社が謝り続けるという一連の姿勢に対して疑問の声も上がったが<ref name="川端" /><ref name="hori" /><ref>{{Harvnb|粕谷|1999|locpp=}}</ref>、『戦後の右翼勢力』を執筆した[[堀幸雄]]によれば、[[福田恆存]](保守派論客)、[[田中清玄]]([[フィクサー]])、[[畑時夫]]([[民論社]])、[[進藤次郎]]([[大阪朝日新聞]]編集局長)と、嶋中社長の話合いで、中央公論社は編集方針を「中正に戻す」条件を呑んだからだという<ref name="hori">{{Harvnb|堀|1993|loc=}}</ref>。堀は「右翼の介入、右翼の調停によって『中央公論』の言論は抑圧され、それだけでなく「[[菊タブー|菊のタブー]]」が再現された」と批判している。これらの経緯が一因で、その後中央公論社で発生した労働争議は長期にわたって続くことになり、1999年の[[読売新聞社]]への身売りをもたらす同社の業績低下はここに始まったとされる<ref name="白川" />。
 
他方で、事件により[[言論の自由|言論]]・[[表現の自由]]が暴力に脅かされたとして、抗議のビラを配布し、右翼の暴力を取り締まるよう国会へ要請していた日本出版労働組合協議会などのマスコミ系の労働組合が中心となって、[[2月8日]]に日比谷公会堂で「テロに抗議し、民主主義を守る会」が開催され、「言論・出版の自由を守る文化団体連絡会」が結成された。
 
ところで、右翼の中では事件の評価について意見が分かれていた。浅沼事件とは違って少年が「[[一殺多生|一人一殺]]」に'''失敗'''したことと、無関係の女性を殺傷させたこと、そして何よりも、「おそるべき右翼の凶刃のもとで、けなげにも最後まで御主人をかばいながら、ついに母としての生涯を無惨に終わられた」といった<ref>参議院質問に立った[[高田なほ子]]議員([[日本社会党]])の言葉。</ref>、被害者の家政婦に対する同情が集まったためである。[[全日本愛国者団体会議]](全愛会議)は婦女子を死傷させたとして少年の行為を否定し、[[大日本愛国団体連合・時局対策協議会]](時対協)は「行為は非とするも精神は是とする」との立場をとった<ref>{{Citation Harvnb|和書| last =猪野| first =健治2005|author-link=猪野健治| year=1973| title =日本の右翼 : その系譜と展望 |publisher =日新報道|pagesp=275}} </ref>。
 
===犯人と裁判===
犯人は、事件直後の第一報では「25歳くらいの男」「右翼名乗る男」と報じられたが、実際に翌日出頭して来たのは17歳の少年であった。
 
この少年Kは、[[佐賀県]]の出身で、前年の夏に高等学校を2年で中途退学。[[家出]]して、名古屋や横浜を転々とし、年末までは横浜で[[沖仲仕]]の仕事などをしていた。1月3日に大日本愛国党の[[赤尾敏]](総裁)のところに来て入党を申し込んだばかりだった。赤尾は仮入党を認めて1月18日から28日にかけて赤尾に同行し、ミサイル基地化反対闘争が行われていた[[新島]]での活動に参加。他の党員とは喋らず無口であったが、浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢については褒めていたという<ref>京谷秀夫『一九六一年冬 「風流夢譚」事件』平凡社ライブラリー、1996年、p.141<name="kyotani"/ref>。2月1日に離党届を出して、その当日の夜に事件を起こしていた<ref name="中村p22" />。
 
大日本愛国党によれば、事件前日に少年は「右翼生活は性格に合わない。田舎に帰る」と出奔したと言い、これは赤尾に累を及ぼさないための気遣いであったらしい<ref name="上條" />。
 
[[1962年]]、[[東京地方裁判所|東京地裁]]で[[被告人]]となった少年に対して懲役15年の判決が言い渡された。少年は「刑を受ける事自体が不当」と控訴して無罪を主張したが、[[1964年]][[11月9日]]に[[東京高等裁判所|東京高裁]]は控訴棄却し、刑が確定した<ref> {{Citation Harvnb|和書| editor =村野|year=2002|pagesp=336| title =明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典|publisher =東京法経学院出版 |isbn= 978-4808940034}}</ref>。
 
収監後に精神状態が不安定になり、長期の療養生活を送ったとの報道が、『[[女性セブン]]』[[1971年]][[11月3日]]号でなされている。それによれば、ノイローゼ状態になったことから[[八王子医療刑務所]]で治療を受けたということだったが、その後の消息は不明。少年の父は[[長崎地方検察庁|長崎地検]]諫早支部の副検事を務めていたが<ref name="上條" />、息子が犯した罪の社会的責任を鑑みて、辞職することになった。
112行目:
 
=== 言論界への影響 ===
1961年12月、発行元の中央公論社は、[[思想の科学研究会]]が編集する『[[思想の科学]]』1962年1月号を一方的に発売停止とし、断裁廃棄処分にした<ref name="pdf"/>。これは同号の特集が[[天皇制]]だったためで、嶋中事件の影響で自主規制を行ったと見られている。この号を断裁前に右翼の[[三浦義一]]や[[公安調査官]](調査庁本庁職員)に読ませていたことも発覚し、研究会はこれに抗議して主要メンバー(左翼系論壇人)が中央公論社への執筆を拒否した<ref name="pdf"/>。さらに『思想の科学』も中央公論社から離れ、自主刊行されることになった<ref name="pdf"/>
 
中央公論社の論調から体制批判的な要素は退潮し、執筆陣もそれまでの主力だった革新系の論客に代わって、[[林房雄]]、[[永井陽之助]]、[[高坂正堯]]といった保守系(ないし非革新系)の論客が登場するようになった。
 
評論家の[[松浦総三]]はこの事件から[[三島由紀夫事件]]までの10年間は天皇制を批判する記事は激減したと述べる<ref>{{Citation Harvnb|和書| last =元木| first =昌彦|author-link=元木昌彦| year=2009| title =週刊誌は死なず |publisher =朝日新聞出版|isbn=9784022732927 |series=朝日新書|pagespp=85-86}}</ref>。事件後は、中央公論社のみならず、言論界全体が萎縮して、皇室に関する言動には神経をはらうようになったと指摘される<ref>{{Citation |和書| last =井上| first =亮|author-link=[[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]]| year=2013|title =「開かれた皇室」は何をもたらしたか |magazine=[[新潮45 ]]|issue =12月号|publisher =[[新潮社]]|pages=53 |series=特集 「昭和」が消えてゆく ; 失われた価値観}}</ref>。
 
==その他==
127行目:
 
=== 三島由紀夫との関係 ===
あたかも[[三島由紀夫]]が「風流夢譚」を賞賛して、二の足を踏んでいた編集部に圧力をかけて雑誌に載せるように推薦したかのようなデマが広まったが、三島はそれを完全に否定している<ref name="mishimadema">[[三島由紀夫]]「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」([[週刊新潮]] 1961年2月27日号に掲載。{{Harvnb|31巻|2003|pp=534-535}}</ref><ref name="gai9"/>。三島は、無名や新人でもない深沢七郎の一作品を、一作家である自分が出版社に働きかけて推薦するわけがないと噂を全否定し、編集者の誰かが責任逃れにそんな嘘を触れ回ったのだろうと述べた<ref name="mishimadema"/>。このデマのために三島はむしろにまで脅迫状が届き一時期、三島に警察の護衛がついた<ref name="radio9">「世界の破滅に抗して」({{Harvnb|徹|2010|pp=118-131}})</ref><ref name="gai9"/>。三島は自作の「[[憂国]]」の原稿を編集者・[[井出孫六]]に渡した際すでに別の編集者から見せられ読んでいた深沢の「風流夢譚」の生原稿を見せられの話題となりむしろ引き起こされるであろう問題を危惧し、その毒を和らげるために自身の「憂国」と並べて載せたらどうかと言っていだけだう(その提案は無視され「憂国」は翌年1月号に掲載された)<ref name="matsumotogai9"/><ref>[[吉田昌志]]「深沢七郎」({{Harvnb|松本事典|20102000|locp=576}}</ref>。このデマのために三島にまで脅迫状が届き、一時期、三島に警察の護衛がついた<ref name="matsumotogai9"/><ref name="radio9"/>。
 
=== 右派勢力の動き ===
[[神社本庁]]などいくつかの団体は、この事件を梃子に[[不敬罪]]復活のキャンペーンを張ろうとした。世論調査ではこの小説を読んだ日本人の59%が不快感を覚えていたが、不敬罪に対する国民の支持が広がることはなく、与党であった[[自由民主党|自民党]]も、党としてこの問題を取り上げることはなかった<ref>{{Harvnb|ケネス・ルオフ [[高橋紘]]監修 木村剛久・福島睦男訳 『国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制』 [[岩波現代文庫]] ISBN 978-4006002145、287p|2003|p=287}}。「世論調査」は[[毎日新聞]]1961年2月6日のものであると注釈に書かれている。</ref>。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考資料 ==
* {{Citation |和書| lastauthor =[[猪野健治]]| first date=幸雄|author2005-link=堀幸雄 | edition=増補04| year=1993| title =戦後日本の右翼勢力| : その系譜と展望 |publisher =[[勁草筑摩書房]]|isbn=978-43263504074480420503 |series=[[ちくま文庫]]|ref={{Harvid|猪野|2005}}}}(初版1983年)
* {{Citation |和書| last editor1= 佐藤井上隆史| first =秀明|author-linkeditor2=佐藤秀明|editor3=[[松本徹 year(学者)|松本徹]]|date=20062000-11| title =[[三島由紀夫 ― 人と文学]]事典|series=日本の作家100人| publisher =[[勉誠出版]] |isbn=978-45850518484585060185|ref={{Harvid|事典|2000}}}}
* {{Citation |和書| last author= 粕谷[[岡山典弘]]| first date=一希|author2014-link=粕谷一希11| year=1999| title =中央公論社と私三島由紀夫外伝|publisher =文藝春秋 [[彩流社]]|isbn=978-41635583014779170225|ref={{Harvid|岡山|2014}}}}
* {{Citation |和書| last author=猪野[[粕谷一希]]| first date=健治|author1999-link=猪野健治11| year=2005| title =日本の右翼 : その系譜中央公論社展望 |publisher =筑摩書房[[文藝春秋]]|isbn=978-4480420503 4163558301|seriesref=ちくま文庫{{Harvid|粕谷|1999}}}}
*{{Citation |和書|author=[[川端幹人]]|series=[[ちくま新書]]|date=2012-01|pages=53-56| title =タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 | publisher=筑摩書房|isbn=978-4480066459|ref={{Harvid|川端|2012}}}}
* {{Citation |和書| last =松本| first =徹|author-link=松本徹 (学者)| year=2010| title =三島由紀夫を読み解く|publisher =[[NHK出版]]|isbn=4149107467 |series=NHKシリーズ NHK[[カルチャーラジオ]]・文学の世界}}
*{{Citation|和書|author=京谷秀夫|date=1996-08|title=一九六一年冬「風流夢譚」事件|series=[[平凡社ライブラリー]]158|publisher=[[平凡社]]|isbn= 978-4582761580|ref={{Harvid|京谷|1996}}}}
*{{Citation|和書|author=佐藤秀明|date=2006-02|title=三島由紀夫――人と文学|series=日本の作家100人|publisher=勉誠出版|isbn=978-4585051848|ref={{Harvid|佐藤|2006}}}}
*{{Citation|和書|author=[[中村智子 (評論家)|中村智子]]|date=1976-10|title=「風流夢譚事件」以後――編集者の自分史|publisher=田畑書店|id={{NCID|BN01743301}}|ref={{Harvid|中村|1976}}}}
* {{Cite bookCitation|和書|author=長島平洋|date=2011-07-23|title=諷刺の笑いとその応答-不敬罪を軸にII |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110008712984|seriesjournal=笑い学研究 No.18|dateissue=2011-07-2318|accessdatevolume=2012-11-30|pages=3-13|publisher=日本笑い学会|naid=110008712984|ref={{Harvid|長島|2011}}}}
*{{Citation|和書|author=根津朝彦|date=2008-03|title=編集者粕谷一希と『中央公論』-「現実主義」論調の潮流をめぐって|journal=総研大文化科学研究|issue=4|volume=|pages=57-81|publisher=[[総合研究大学院大学]]文化科学研究科|naid=40016239529|ref={{Harvid|根津|2008}}}}
*{{Citation|和書|author =[[堀幸雄]]|date=1993-10|title =戦後の右翼勢力|edition=増補|publisher =[[勁草書房]]|isbn=978-4326350407|ref={{Harvid|堀|1993}}}} 初は1983年6月
*{{Citation|和書|author=[[深沢七郎]]|date=2012|title=志木電子書籍|format=Kindle版|publisher =志木電子書籍|id={{ASIN|B009SXCRSS}}|ref={{Harvid|深沢|2012}}}}
* {{Citation |和書| last =松本| first =徹|author-link=松本徹 (学者)| yeardate=2010-07| title =三島由紀夫を読み解く|publisher =[[NHK出版]]|isbn=4149107467 |series=NHKシリーズ NHK[[カルチャーラジオ]]・文学の世界|publisher=[[NHK出版]]|isbn=978-4149107462|ref={{Harvid|徹|2010}}}}
*{{Citation|和書|date=2003-06|title=決定版 三島由紀夫全集31巻 評論6|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4106425714|ref={{Harvid|31巻|2003}}}}
*{{Citation |和書|editor =村野薫|date=2002-07| title =明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典|publisher =[[東京法経学院出版]]|isbn= 978-4808940034|ref={{Harvid|村野|2002}}}}
*{{Citation |和書|author=[[元木昌彦]]|date=2009|title =週刊誌は死なず|publisher =[[朝日新聞出版]]|isbn=9784022732927|series=[[朝日新書]]|ref={{Harvid|元木|2009}}}}
*{{Citation|和書|editor=[[別冊宝島]]編集部|date=1989-04|title=平成元年の右翼――右翼の未来はあるか?!|publisher=[[宝島社|JICC出版局]]|isbn=978-4880635514|ref={{Harvid|平成右翼|1989}}}}
*{{Citation|和書|editor=別冊宝島編集部|date=2006-01|title=戦後ジャーナリズム事件史――スクープ、テロ、言論弾圧 「表現者」たちの激闘譜|series=別冊宝島1238|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4796649995|ref={{Harvid|宝島事件史|2006}}}} 宝島SUGOI文庫版は2008年6月 ISBN 978-4796664561
*{{Citation |和書|author1=ケネス・ルオフ| author2=[[高橋紘]]監修、木村剛久・福島睦男|date=2003-12|title =国民の天皇 戦後日本の民主主義と天皇制|publisher =[[岩波現代文庫]]|isbn=978-4006002145|ref={{Harvid|ケネス|2003}}}}
*{{Citation |和書|author=明治大正昭和新聞研究会|date=2013-09|pages=318| title =新聞集成昭和編年史 昭和36年版 1 嶋中事件|publisher=新聞資料出版 |isbn=978-4884102708|ref={{Harvid|新聞集36|2013}}}}
<!--下記は内容が記述に利用されているか不明-->
* {{Citation|和書|editor=[[日本ジャーナリスト会議]]出版支部編『|date=1989-10|title=目でみる出版ジャーナリズム小史 |edition=増補版』([[1989年]]、|publisher=高文研|isbn=978-4874981085 |ref={{Harvid|日本ジャ|1989}}}}
* {{Cite book|和書|author=長島平洋|title=諷刺の笑いとその応答-不敬罪を軸にII|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110008712984|series=笑い学研究 No.18|date=2011-07-23|accessdate=2012-11-30|pages=3-13|publisher=日本笑い学会}}
* [[日本ジャーナリスト会議]]出版支部編『目でみる出版ジャーナリズム小史 増補版』([[1989年]]、高文研)
*『決定版 三島由紀夫全集第31巻・評論6』(新潮社、2003年)
 
== 関連項目 ==
* [[菊タブー]]
* [[右翼団体]]
* [[菊タブー]]
* [[桐山襲]]
* [[大日本愛国党]]
* [[不敬罪]]
 
==外部リンク==