「藤堂平助」の版間の差分

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藤堂平助は油小路の包囲網の脱出に成功し、九死に一生を得た。肩から背中にかけて長い刀傷が残っていたという。<br>
その後名前を変え、'''元新選組隊士の[[川村三郎]](近藤芳助)と共復帰水道事業絡みの利権で大儲けした。<br>
[[明治時代|明治期]]には[[横浜]]に住み、[[大正11年]]から[[大正12年]]([[1922年]]から[[1923年]])頃、満78~79歳で没した。'''<br>
また、平助の息子は遺産を道楽で使い果たした挙句に音信不通になったとされる。|3=}}
 
[[日野市|多摩・日野]]の[[郷土史家]][[谷春雄]]の発表した平助の生存説<ref>谷春雄『歴史と旅』所収「油小路の藤堂平助」(秋田書店、1980年11月号)</ref>は上記のような内容である。
しかしながら、この説は殺害後の状況からして相当無理があり、自称子孫の談話のみで他[[史料]]による傍証もなく、執筆者の谷自身でさえも懐疑的だったという点から'''信憑性に欠けるものだと判断せざるを得ない。'''
 
== 人物 ==