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[[ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|350px|[[ギーザ|ギザ]]の[[三大ピラミッド]]]]
'''ピラミッド'''('''Pyramid'''、{{lang-ar|هرم}}ハラム)は、[[エジプト]]・[[中南米]]などに見られる[[四角錐]]状の巨石[[建造物]]の総称であり、また同様の形状の[[物体]]を指す。その形からかつては'''金字塔'''(きんじとう)という訳語が使われていた。世界でもっとも有名な遺跡の一つとされており<ref>下川 香苗 (著), 茶留 たかふみ (著), 本村 凌二 (著) 『世界の歴史 (1) エジプトとメソポタミアの繁栄 : 古代オリエント 集英社版・学習漫画』2002年、154頁。</ref>、現代においても「[[wikt:金字塔|金字塔]]」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない後世に永く残る立派な業績(偉大な作品や事業)などを表す[[代名詞]]となっている。
 
'''ピラミッド'''('''Pyramid'''、{{lang-ar|هرم}}ハラム)は、[[エジプト]]・[[中南米]]などに見られる[[四角錐]]状の巨石[[建造物]]の総称であり、また同様の形状の[[物体]]を指す。その形からかつては'''金字塔'''(きんじとう)という訳語が使われていた。世界でもっとも有名な遺跡の一つとされており<ref>下川 香苗 (著), 茶留 たかふみ (著),本村 凌二 (著) 『世界の歴史 (1) エジプトとメソポタミアの繁栄 : 古代オリエント 集英社版・学習漫画』2002年、154頁。</ref>、現代においても「[[wikt:金字塔|金字塔]]」は、ピラミッドのように雄大かつ揺るぎもしない後世に永く残る立派な業績(偉大な作品や事業)などを表す[[代名詞]]となっている。
 
== 古代エジプト ==
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スネフェル王はまた、'''[[屈折ピラミッド]]'''と称されることになるピラミッドも築いた。これは建設途中に(地上から49m地点で)勾配を約54度から約43度に変更していて、高さは約101mであった。
 
屈折ピラミッドの形状の理由としては、
* 勾配が急過ぎて危険なため(崩壊の危険、玄室にかかる重量過多)角度を途中で変更した。
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=== ヌビアのピラミッド ===
[[Image:Sudan Meroe Pyramids 2001.JPG|250px|thumb|right|ヌビアのピラミッドの航空写真(メロエ)]]
 
{{Main|ヌビアのピラミッド}}
 
エジプトにおいて王のためのピラミッドが建設されなくなったのは[[紀元前16世紀]]であるが、それから800年ほどたった[[紀元前8世紀]]に、エジプト文化の影響を強く受けていた南の[[ヌビア]]においてピラミッド建設が開始された。ヌビアのピラミッド建造開始は、[[ナパタ]]に都をおく[[クシュ]]王国の[[ピイ (ヌピア)|ピイ]]王がエジプトを征服し[[エジプト第25王朝]]を開いてからである。ピイ王は王家の墓地のあったエル・クッルに小型のピラミッドを建造し、以後の第25王朝の諸王もこの地にピラミッドを建造した。これらのピラミッドは底辺が10mほどの小型のものであり、礼拝堂が併設され、中の玄室には遺体が安置された。すなわち、ヌビアのピラミッドは諸説あるエジプトのものとは違い、明確に墓として建造されていた<ref>「図説ピラミッドの歴史」p111-112 大城道則 河出書房新社 2014年2月28日初版発行</ref>。[[紀元前656年]]に第25王朝が[[アッシリア]]に敗れてエジプトを失陥しヌビアに撤退したのちも、ピラミッドの建造は続けられた。紀元前591年ごろに首都がナパタから[[メロエ]]へと遷都されると、ピラミッドはメロエにおいて建造されるようになった。このピラミッド建造は、メロエ王国が滅亡する紀元後[[4世紀]]まで、約1200年にわたりつづけられた。
 
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[[ファイル:TempleOfMasks Uaxactun.JPG|thumb|200px|[[ワシャクトゥン]]Group Eの中心部にあるスタッコ人頭神殿]]
 
[[ファイル:Huaca Sol lou.jpg|thumb|200px|right|モチェ遺跡の「太陽のワカ」]]
 
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=== イタリア ===
[[File:Porta San Paolo - Piramid Cestius.JPG|thumb|200px|ローマの[[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]]]
;*[[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]
 
;[[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]
このピラミッドは、紀元前18年から12年の間に建造されたもので、[[古代ローマ]]の[[執政官]]、[[プラエトル|法務官]]を務めていたガイウス・ケスティウス・エプロの[[墓]]である。外観は、本場[[エジプトのピラミッド]]よりも急勾配で[[ヌビアのピラミッド]]に近い。外部は、白色の[[大理石]]により化粧が施されている。
 
=== ボスニア ===
{{Main|en:Bosnian pyramids|ボスニアのピラミッド説}}
 
ボスニアのヴィソコにはヨーロッパ初のピラミッドなどとされる山<ref>{{Cite web |date=2006-9 |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/zaigai/news/bosnia.html |title= 外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)|publisher=外務省 |quote=ボスニア人アマチュア考古学者オスマナギッチ氏がこの山を12000年前のピラミッドとする説を発表、発掘作業を開始|accessdate=2013-04-14}}</ref>があるが、ただの山であるとも言われる<ref>{{Cite web |date=2006-9 |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/zaigai/news/bosnia.html |title= 外務省: 在外公館ニュース(在ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館)|publisher=外務省 |quote=この山は自然の隆起で出来たものだとする考古学者もおり、ピラミッド説の真偽は未だ解明されず|accessdate=2013-04-14}}</ref>
 
== 現代のピラミッド ==
[[File:Paris July 2011-27a.jpg|thumb|right|300px|ルーヴル美術館メイン・エントランスのルーヴル・ピラミッド。]]
 
ピラミッドは非常に特徴的な外観をしており、これを模した、あるいはヒントを得た現代の建造物は世界中に多数存在する。最も著名なものは[[フランス]]の[[ルーヴル美術館]]の中庭に[[1989年]]に完成した[[ガラス]]製のピラミッド、いわゆる[[ルーヴル・ピラミッド]]である。
 
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=== フリーメイソン建造説 ===
[[File:Eye of Providence with Rays.svg|right|thumb|150px|フリーメイソンのシンボルの内の1つ[[プロビデンスの目]]。]]
 
たびたび[[秘密結社]]として紹介される[[フリーメイソン]]が作ったとする説がある([[フリーメイソン#起源]]も参照)。これはフリーメイソンの起源の1つとして[[石工]]組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在したとする説であり、フリーメイソンのシンボルの1つである[[プロビデンスの目]]はピラミッドを想起させる三角形が使われており、事実、集会所でもある[[ロッジ]]には「ピラミッド・ロッジ」や「スフィンクス・ロッジ」などエジプトやピラミッドにちなんだ名前がつけられている。しかし、古代エジプトにフリーメイソンが存在した説は発見されていない。しかし近年、フリーメイソンのロッジを思わせる集落が発見されたらしい。また、参入儀式は[[エジプト神話]]の[[オシリスとイシスの伝説]]に基づいて行われる。
 
== エピソード ==
*[[ナポレオン・ボナパルト]]は、[[ピラミッドの戦い]]で、[[エジプト軍]]の中で戦場で考慮すべきは騎兵隊だけであると判断した。彼は「兵士諸君!あの遺跡の頂から40世紀の歴史が諸君を見下ろしている」と言って配下の軍隊を鼓舞した。
 
== 関連記事 ==
{{Wikiquote|ピラミッド}}
 
*[[カイロ]]
*[[ギザの大スフィンクス|スフィンクス]]
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{{DEFAULTSORT:ひらみつと}}
 
[[Category:ピラミッド|*]]
[[Category:メソアメリカ文明]]
[[Category:土木史]]
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