「閑山島海戦」の版間の差分

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|commander2=[[脇坂安治]]
|strength1=
|strength2=1,500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>
|casualties1=
|casualties2=損害大
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'''閑山島海戦'''(かんざんとうかいせん)は、[[文禄の役]]における海戦の一つ。
[[文禄]]元年([[1592年]])7月7日に閑山島と[[巨済島]]の間の海峡で単独出撃をした[[脇坂安治]]率いる1500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>の[[水軍]]を、朝鮮水軍が誘引迎撃戦術により撃破した海戦。
 
 
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同月29日、李舜臣は泗川湾で日本輸送船団を攻撃し、大船12隻を焼き払った。この時舜臣も銃弾を左肩に受け負傷した。6月2日朝、李舜臣は唐浦に停泊中の[[得居通年|来島通之]]・[[亀井茲矩]]率いる20余隻の船団を攻撃した<!---死んでないですよ、通之を戦死させた---><ref>玉浦から唐浦までの経緯は、『愛媛県史 近世上』(愛媛県、1986年)P60-63より。</ref>。
 
これに対処するために[[豊臣秀吉]]は6月23日付けの書状で陸戦や後方輸送に従事していた[[脇坂安治]](動員定数1500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>)、[[九鬼嘉隆]](動員定数1500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>)、[[加藤嘉明]](動員定数750人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>)の三大名を招集し、朝鮮水軍を討つように命じた。
 
== 閑山島海戦の経過 ==
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7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には[[亀甲船|亀船]]三隻が参加していたという。<ref>ただし、亀船(亀甲船)の実在も史料上、確証はない。</ref>囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。
 
李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>であることを考えると、発見数と戦果は過大申告である。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)。
 
韓国では、脇坂安治の軍の兵力が5000~12000人、戦死者数5000~9000人などとする、史実・資料を鑑みないまま、つまり全く学術的な方面を無視して、兵力・死傷者を10倍に誇張した創作的な主張が行われているが、日本と韓国の史料にそのような記述は存在しない。日本側の史料である『「天正記」第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり」』に記載されている脇坂安治の兵数は1500人である。また、[[石高]]が3万石程度の大名である脇坂安治が、5000人以上の兵力を動員することは不可能であり非現実的である。慶長の役においても、脇坂安治の動員数は1200人<ref>「秀吉朱印状・慶長二年(1597)二月二十一日」陣立書</ref>である。1600年の関ヶ原の合戦での脇坂安治の動員数は900人であった<ref>参謀本部 関ヶ原役</ref>。
 
文禄の役での動員数の例<ref>吉川弘文館、中野等、文禄・慶長の役、p33</ref>
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[[九鬼嘉隆]]、3万5,000石、動員1,500人
[[脇坂安治]]、3万石、動員1,500人<ref>『天正記』第七巻所収「ちやうせん国御進発の人数つもり</ref>