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武帝は[[元封 (漢)|元封]]3年([[紀元前108年|前108年]])に朝鮮を討伐し、[[衛満]]の孫の[[衛右渠]]を殺すと、その土地を分けて四つの郡([[真番郡]],[[臨屯郡]],[[楽浪郡]],[[玄菟郡]])を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。昭帝の[[始元 (漢)|始元]]5年(前82)臨屯と真番を廃止し[[楽浪郡]],[[玄菟郡]]に併せた。
 
[[紀元前75年]]、貊族(夷貊)の攻撃を受けて玄菟郡治が北西の高句麗県へ移り、沃沮・濊貊は尽く楽浪の管轄へ移った。また、管轄範囲が広く遠いことから、濊貊・沃沮の住む単単大嶺の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東七県(東暆県,不耐県,蚕台県,華麗県,耶頭県,前莫県,夫租沃沮県)に分けて治めさせ、官吏は濊(東濊)の民が務めた。
 
[[後漢]]の[[建武 (漢)|建武]]6年([[30年]])、辺境の郡が整理され楽浪東部都尉も省かれた。その後、それぞれの県の渠帥(首長)が県侯に封じられ、不耐,華麗,沃沮(夫租)の諸県はみな侯となった。
 
[[32年]]、光武帝は高句驪侯を高句麗王に昇格させ、濊貊は夫余国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。濊貊(江原道)と沃沮(咸鏡道)は各地に首長が並立し統一国家は作らなかった。夷狄(濊貊・沃沮・高句麗)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたが、不耐の濊侯だけは(晋の官吏としての)功曹や主簿などの官員を置き、今(晋代)も続いている。この不耐侯国の官吏はすべて濊人(東濊人)が務めた。沃沮の村落の渠帥は、皆が古の県国制に則り三老を自称していた。