「大喪儀」の版間の差分

構成
(→‎構成: Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し) 見出しの中でリンクはしない)
(構成)
'''大喪儀'''(たいそうぎ)は、[[天皇]]・[[皇后]]・[[太皇太后]]・[[皇太后]]の[[皇室葬儀]]のこと。[[1924年]][[皇室喪]]のこで詳細が記されており、現在も慣例して行われている
 
現在の[[日本国憲法]]下では、現[[皇室典範]]の規定により[[天皇]]の時は、国の儀式として「[[大喪の礼]]」が行われる。
 
== 構成 ==
;陵所[[地鎮祭]]の儀
====香淳皇后====
:完した[[御陵]]を祓う儀。
;[[殯|殯宮]]移御の儀(ひんきゅういぎょ)
:天皇の棺を櫬殿から殯宮に移す儀式
;櫬殿祓除の儀(しんでんばつじょ)
;殯宮日供の儀(ひんきゅうにっく)
:毎日行われる。
;殯宮移御後一日祭の儀
;殯宮拝礼の儀
;殯宮二十日の儀
;[[追号]]奉告の儀
;殯宮三十日の儀
;殯宮四十日の儀
;陵所祓除の儀
;霊代奉安の儀
;[[斂葬の儀|斂葬]]前殯宮拝礼の儀(れんそう)
:天皇の御霊代を宮殿の表御座所奉安する儀。
;斂葬当日殯宮祭の儀
;[[霊柩車|轜車]]発引の儀(じしゃはついん)
;[[葬場祭|葬場殿]]の儀
;[[大喪の礼]]御式
:[[国事行為]]。
;陵所の儀
;権殿日供の儀 
;[[山陵]]日供の儀
;斂葬後一日権殿祭の儀
;権殿五十日祭の儀
;斂葬後一日山陵祭の儀
;山陵五十日祭の儀
;倚廬殿の儀(いろでん)
:喪に服す。
;権殿百日祭の儀
;山陵百日祭の儀
;山陵起工奉告の儀
;山陵竣工奉告の儀
;権殿一周年祭の儀
;山陵一周年祭の儀
;御禊の儀(みそぎ)
;[[大祓]]の儀
 
 
== 変遷 ==
元々江戸時代までの皇室の[[葬儀]]は仏式で寺院において行われていたが、[[明治時代]]以降神式が行われるようになった。
 
[[飛鳥時代]]までは、[[殯宮]]を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、[[持統天皇]]の時に[[火葬]]が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。
 
[[奈良時代]]に、[[聖武天皇]]の時に[[仏教]]に則った方式に変更され、以後[[村上天皇]]までは天皇の葬儀が国家的行事として行われてきたが、次の在位中の崩御となった[[後一条天皇]]の葬儀以後、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った後に天皇家の私的行事である[[太上天皇]]の葬儀の形式で内々に行われるようになり、[[穢]]との関連から外戚や近臣などの例外を除いては公卿が参列することもなくなった<ref name=hisamizu>久水俊和「天皇家の葬送儀礼と室町殿」(初出:『國學院大學大学院紀要(文学研究科)』34号(2002年)/改題所収:「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
 
[[平安時代]]以後も、[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]に至るまで、[[仏教]]に則った方式が行われ、生前に造営した寺院などで行う事になり、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後光厳天皇]]以後は[[京都]][[泉涌寺]]で開催されることとなった。前述の事情により、天皇の葬儀に関する作業の多くはほとんど僧侶の手で行われる一種の秘儀となったが、戦乱による泉涌寺の荒廃によって僧侶が揃えられなかった[[後土御門天皇]]の時は、実際に手伝った公卿の[[東坊城和長]]は『明応記』と称される詳細な葬儀記録(凶事記)を残して、後世に天皇の葬儀の様子を伝えている。なお、同天皇の葬儀は[[応仁の乱]]後の財政難から作業の中断を余儀なくされ、実際の葬儀が開かれたのは崩御から43日後で後世に「玉体腐損、而蟲湧出」(『続本朝通鑑』)と伝えられた(ただし、真相は不明である)<ref>久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
 
[[江戸時代]]に入ると、[[江戸幕府]]の影響の下で再び国家的行事の性格を有するようになり、現職の摂関以外のほとんどの公卿が参列するものとなった<ref name=hisamizu/>。また、[[後光明天皇]]以後は様式は[[火葬]]のまま、実際には[[土葬]]の制が復活した。
 
[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]になり、[[孝明天皇]]の時に神道に則った形式へ変更され、[[明治維新]]と[[東京奠都]]の影響により、その三年祭は[[東京]]に移された宮中で[[神道]]に則って開催された。以後、[[英照皇太后]]と[[明治天皇]]と神式の形式が取られていった。
 
[[大正時代]]には、[[1909年]]に[[皇室服喪令]]、続いて[[1924年]]に[[皇室喪儀令]]が制定され、天皇及び三后の逝去を「'''[[崩御]]'''」・葬儀を「'''大喪'''」と呼称する事が定められた。[[戦後]]の[[皇室典範]]改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。
 
戦後、[[日本国憲法]]施行後は、[[1989年]]の[[昭和天皇]]の場合には、[[政教分離原則]]に反しない形で国家の儀式として「[[大喪の礼]]」、皇室の儀式として「大喪儀」と、名目上は分離され開催されており、「大喪儀」は神道に則った形式で執り行われた。
 
==実際に行われた例==
===香淳皇后===
[[2000年]](平成12年)
*06月16日 皇太后崩御
*09月23日 権殿百日祭の儀(皇居)
**山陵百日祭の儀(武蔵野東陵)
 
====高松宮宣仁親王妃喜久子(年間)====
[[2004年]](平成16年)
*12月19日 高松宮宜仁親王妃喜久子 [[薨去]](高松宮宮邸)
**お舟入当日拝礼(高松宮宮邸)
**拝訣(高松宮宮邸)
**御舟入,拝訣(高松宮宮邸)    
*12月24日 正寝移柩の儀当日ご拝礼(高松宮宮邸) 
**お通夜(高松宮宮邸)
*12月25日 霊代安置の儀当日ご拝礼(高松宮宮邸)
**霊代安置の儀(高松宮宮邸)
**お通夜(高松宮宮邸)
*12月26日 斂葬当日柩前祭の儀(高松宮宮邸)
**斂葬の儀(葬場の儀)(豊島岡墓地)
**斂葬の儀(墓所の儀)(豊島岡墓地)
*12月27日 斂葬後一日墓所祭
**墓所十日祭の儀当日ご拝礼(豊島岡墓地)
**斂葬後一日権舎祭・権舎十日祭の儀(高松宮宮邸)
**斂葬後一日墓所祭・墓所十日祭の儀(豊島岡墓地)
[[2005年]](平成17年)
*1月6日 権舎二十日祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所二十日祭の儀(豊島岡墓地)
*1月16日 権舎三十日祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所三十日祭の儀(豊島岡墓地)
*1月26日 権舎四十日祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所四十日祭の儀(豊島岡墓地)  
*2月5日 権舎五十日祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所五十日祭の儀(豊島岡墓地)
*3月27日 権舎百日祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所百日祭の儀(豊島岡墓地)
*3月28日 ご参拝(高松宮墓所)(豊島岡墓地) 百日祭の儀後のご拝礼
*12月18日 権舎一周年祭の儀(高松宮宮邸)
**墓所一周年祭の儀(豊島岡墓地)
*12月20日 宣仁親王妃喜久子の霊代を皇霊殿に遷すの儀
**権舎の儀(高松宮宮邸)
 
== 変遷 ==
元々江戸時代までの皇室の[[葬儀]]は仏式で寺院において行われていたが、[[明治時代]]以降神式が行われるようになった。
 
[[飛鳥時代]]までは、[[殯宮]]を設置して1年間遺体を安置する慣わしであったが、[[持統天皇]]の時に[[火葬]]が導入されて以後は簡略化されて30日間が通例とされた。
 
[[奈良時代]]に、[[聖武天皇]]の時に[[仏教]]に則った方式に変更され、以後[[村上天皇]]までは天皇の葬儀が国家的行事として行われてきたが、次の在位中の崩御となった[[後一条天皇]]の葬儀以後、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った後に天皇家の私的行事である[[太上天皇]]の葬儀の形式で内々に行われるようになり、[[穢]]との関連から外戚や近臣などの例外を除いては公卿が参列することもなくなった<ref name=hisamizu>久水俊和「天皇家の葬送儀礼と室町殿」(初出:『國學院大學大学院紀要(文学研究科)』34号(2002年)/改題所収:「天皇家の葬送儀礼からみる室町殿」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
 
[[平安時代]]以後も、[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]に至るまで、[[仏教]]に則った方式が行われ、生前に造営した寺院などで行う事になり、[[北朝 (日本)|北朝]]の[[後光厳天皇]]以後は[[京都]][[泉涌寺]]で開催されることとなった。前述の事情により、天皇の葬儀に関する作業の多くはほとんど僧侶の手で行われる一種の秘儀となったが、戦乱による泉涌寺の荒廃によって僧侶が揃えられなかった[[後土御門天皇]]の時は、実際に手伝った公卿の[[東坊城和長]]は『明応記』と称される詳細な葬儀記録(凶事記)を残して、後世に天皇の葬儀の様子を伝えている。なお、同天皇の葬儀は[[応仁の乱]]後の財政難から作業の中断を余儀なくされ、実際の葬儀が開かれたのは崩御から43日後で後世に「玉体腐損、而蟲湧出」(『続本朝通鑑』)と伝えられた(ただし、真相は不明である)<ref>久水俊和「東坊城和長の『明徳凶事記』」(初出:『文化継承学論集』5号(2009年)/改題所収:「〈凶事記〉の作成とその意義」久水『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)</ref>。
 
[[江戸時代]]に入ると、[[江戸幕府]]の影響の下で再び国家的行事の性格を有するようになり、現職の摂関以外のほとんどの公卿が参列するものとなった<ref name=hisamizu/>。また、[[後光明天皇]]以後は様式は[[火葬]]のまま、実際には[[土葬]]の制が復活した。
 
[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]になり、[[孝明天皇]]の時に神道に則った形式へ変更され、[[明治維新]]と[[東京奠都]]の影響により、その三年祭は[[東京]]に移された宮中で[[神道]]に則って開催された。以後、[[英照皇太后]]と[[明治天皇]]と神式の形式が取られていった。
 
[[大正時代]]には、[[1909年]]に[[皇室服喪令]]、続いて[[1924年]]に[[皇室喪儀令]]が制定され、天皇及び三后の逝去を「'''[[崩御]]'''」・葬儀を「'''大喪'''」と呼称する事が定められた。[[戦後]]の[[皇室典範]]改正により、皇室服喪令・皇室喪儀令は廃されたものの、慣例としてこれに準じた儀礼が採用された。
 
戦後、[[日本国憲法]]施行後は、[[1989年]]の[[昭和天皇]]の場合には、[[政教分離原則]]に反しない形で国家の儀式として「[[大喪の礼]]」、皇室の儀式として「大喪儀」と、名目上は分離され開催されており、「大喪儀」は神道に則った形式で執り行われた。
 
== 脚注 ==
10,382

回編集