「鹿内信隆」の版間の差分

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*{{要出典範囲|[[1978年]]5月、編集主幹として、編集の全権を掌握(通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている)|date=2015年8月}}。
*{{要出典範囲|[[1989年]]10月、10億ともいわれる巨費を投じて、アメリカ大統領を退いたばかりの[[ロナルド・レーガン]]を招待し、産経新聞で20ページからなる特集記事を掲載|date=2015年8月}}。
*鹿内のフジテレビ社長時代に入社したアナウンサー・[[逸見政孝]]は、大学の同期で友人でもあった[[松倉悦郎]]と共にフジテレビの入社試験に臨んだ際、鹿内から「早稲田の文学部から2人受けている、君、1人しか受からなかったらどうするかね?」と質問されたという。逸見は困惑しつつ「それは困ります」と答えた<ref>この時、逸見は鹿内らの反応を見て「松倉にも同じ質問をして同じように答えたのだな」と思ったという。結果的に逸見・松倉共にフジテレビに合格し、揃って入社した</ref>。奇しくも逸見は鹿内が死去して3年後の[[1993年]]、48歳の若さで死去した。
*鹿内のフジテレビ会長時代に入社した[[山中秀樹]]は幼少時代からの[[広島東洋カープ]]ファンでかつ[[アンチ巨人]]でもあったため、フジテレビの入社試験で鹿内から「君が退社して、もし[[日本テレビ放送網|日テレ]]からの仕事があったらどうするかね?」と質問されたが、山中は「死ぬまでフジテレビ以外は出演しません」と答えたという<ref>実際にはフリー転身後、日本テレビおよび系列局の番組にも出演している。</ref>。
*鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の水野でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球の[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]<ref>1969年に[[ヤクルト本社]]に球団保有株式の一部を売却してアトムズに改称、[[1970年]]にフジサンケイグループが経営から撤退し、資本関係のみ継続してヤクルトアトムズに改称。現在は東京ヤクルトスワローズ</ref> と琵琶湖畔のスキー場・[[びわ湖バレイ|サンケイバレイ]]の経営権を売却し、[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや[[夕刊フジ]](もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた。