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'''カール・マルクス・ホーフ'''(Karl-Marx-Hof)は[[ウィーン]]19区にある[[集合住宅]]。カール・エーンの設計により1926-30年に建設され、[[表現主義]]的な造形で知られる。名称は思想家[[カール・マルクス]]に因む。
==概要==
[[ファイル:Döbling (Wien) - Karl-Marx-Hof.JPG|thumb|カール・マルクス・ホーフ]]
[[File:Karl Marx-Hof Keramikskulpturen.jpg|right|thumb|400px|衛生・解放・教育・福祉の彫刻]]
[[第一次世界大戦]]の敗戦、[[ハプスブルク帝国]]の崩壊を経たウィーンでは、[[オーストリア社会民主党|社会民主党]]が政権を握った([[赤いウィーン]])。旧帝国官吏の流入や戦後の結婚ブームにより世帯数が増加し、住宅難が深刻となったため、失業対策も兼ねて大量の市営住宅建設が計画された<ref>田口、p202。</ref>。1923年に15棟の集合住宅が完成し、以後、1924年から34年(社会民主党政権崩壊)までに384棟、61,175戸の集合住宅が建設された<ref>田口、p208。</ref>。
その中で最も有名なカール・マルクス・ホーフは、[[ベートーヴェン]]の家や[[ホイリゲ]](ワイン酒場)で
駅に面
設計者のカール・エーン([[:en:Karl_Ehn|Karl Ehn]])はウィーン市役所の建築家で[[オットー・ワーグナー]]の教え子である。中庭形式のプランは多くの市営住宅で採用され、ワーグナーによるウィーン22区のための都市計画案(1911年)の影響が見られる<ref>大川他、p196-197。</ref>。
1934年、社会民主党政権が崩壊し、内乱状態([[2月内乱]])になると、武装した労働者が籠城したが、オーストリア軍によって鎮圧された。その後、ハイリゲンシュタッター・ホーフと改名された<ref>田口、p238-239。</ref>
==エピソード==
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