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'''間宮 綱信'''(まみや つなのぶ、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]]) - [[慶長]]14年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]([[1609年]][[11月6日]])<ref name="kansei">『新訂寛政重修諸家譜7』</ref>)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の武将、[[旗本]]。[[後北条家]]家臣。[[滝山城]]主[[北条氏照]]の与力。北条家滅亡後は[[徳川家康]]に転仕した。[[氷取沢陣屋]]主、[[氷取沢間宮家]]当主。
 
[[間宮信元]]の次男。[[笹下城]]主で[[間宮氏]]の総領[[間宮康俊]]の実弟。[[氷取沢]]間宮家の家祖。妻は[[宅間上杉家]]・[[上杉富朝]]の女。子に[[間宮正重]]、[[間宮頼次]]、[[間宮重信]]らがいる<ref name="kansei"/>。
 
北条家の外交副使として織田家への使者を務めて[[織田信長]]に謁見している。その途上、徳川家康にも面会している。[[安土城]]を見た間宮綱信が総石垣城である[[八王子城]]の縄張りに関与したとされる。[[八王子城]]址の現地ガイドでは間宮綱信が八王子城を縄張りしたと案内している。
 
北条家滅亡後、間宮家中で最初に徳川家康に仕え、[[武蔵国]][[久良岐郡]]氷鳥沢村(現在の[[横浜市]][[磯子区]][[氷取沢]])に隠居料500石を与えられている。
 
江戸時代に[[新編武蔵風土記稿]]を編集した[[間宮士信]]は、この綱信の子孫に当たる。
 
== 菩提寺 ==
* 飯盛山[[宝勝寺 (横浜市磯子区)|宝勝寺]]
 
==脚注==
<references/>
 
== 参考文献 ==
*[[盛本昌広]]著「間宮氏由緒の形成」(『[[六浦文化研究]]』第十号所収、[[六浦文化研究所]]、2001年)
*『新訂[[寛政重修諸家譜]]7』261-262頁
 
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[[Category:戦国武将]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:間宮氏|つなのふ]]
[[Category:氷取沢間宮氏|つなのふ]]
[[Category:1536年生]]
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