「広中平祐」の版間の差分

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*[[ハーバード大学]]では[[オスカー・ザリスキ]]に師事。同門下に[[デヴィッド・マンフォード]](1974年フィールズ賞受賞)がおり、広中は後年「ランチを食べながらお互いに教え合い、刺激しあった」と語っている<ref>中国新聞連載「生きて」、2008年12月</ref>。
*研究員としてパリに滞在していた[[1959年]]、語学学校で指揮者の[[小澤征爾]]と出会い、親交を結ぶ。1960年、小澤がバークシャー音楽祭(現・[[タングルウッド音楽祭]])に出演するため来米すると、広中が車を運転して空港から送迎したという(小澤はこの時、最高賞の[[セルゲイ・クーセヴィツキー|クーセヴィツキー]]賞を受賞し、アメリカで名声を得るきっかけとなる)<ref>中国新聞連載「生きて」、2008年12月</ref>。
*数学教育に積極的に取り組んでいることでも知られる。数理科学に強い情熱と優れた資質を持つ若者に学年や地域の壁を越えた交流の機会を提供するために、[[1980年]]に第1回[[数理の翼]]夏季セミナー]]を主催。[[1984年]]には財団法人[[数理科学振興会]]を設立し、代表に就任。1992年からは小学生対象の「[[算数オリンピック]]」会長。ほかに[[東京書籍]]の[[算数]]・数学[[教科書]]の監修も担当している。
*座右の銘は「素心深考」。