「日本近代史」の版間の差分

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加山雄三も父親の上原謙も本名は「池端」であり、上原勇作とは無関係
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[[1923年]](大正12年)には[[関東大震災]]が生じた。この未曾有の大災害に[[東京]]は大きな損害を受けるが、震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立し、その内務相となった[[後藤新平]]が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行い[[インフラ]]が整備され、大変革を遂げた。また[[ラジオ]]放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画された[[パリ]]や[[ロンドン]]を参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の[[首都高速]]の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた[[亀戸事件]]などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。
 
大正期を特色付けるのは、[[大正デモクラシー]]と称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては[[軍部]]や[[元老]][[山県有朋]]の下で[[藩閥政治]]が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の[[桂太郎]]と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、[[桂園時代]]とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣[[上原勇作]](俳優の[[加山雄三]]の曽祖父)が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、[[陸軍]]は後任陸相を出さなかったため[[軍部大臣現役武官制]]によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して[[宮中]][[侍従長]]から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の[[知識階級]]を中心にその反発は強まった。そして[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らによる[[憲政擁護運動]]([[護憲運動]])が起こり、[[新聞]]の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、[[シーメンス事件]]で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった[[大隈重信]]が組閣した。その後、関東大震災や[[虎ノ門事件]]の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って[[清浦奎吾]]が内閣を組織しようとした。それに対し[[憲政会]]・[[革新倶楽部]]・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした[[政友本党]]に対抗した。[[護憲三派]]は選挙で勝利し、[[護憲三派内閣]]として[[加藤高明]]内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、[[1925年]](大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに[[選挙権]]を与える[[普通選挙法]]を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に[[治安維持法]]を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって[[政党]]政治が定着するようになった。この後、[[1932年]](昭和7年)に犬養毅内閣が[[五・一五事件]]で倒れるまで、[[政党政治]]が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、[[官僚]]や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。
 
このころまでに近代[[日本語]]が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、[[芥川龍之介]]、[[有島武郎]]・[[武者小路実篤]]・[[志賀直哉]]ら[[白樺派]]、[[中里介山]]の『[[大菩薩峠]]』や『[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]]』の経営にも当った[[菊池寛]]などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、[[小牧近江]]らによって雑誌『[[種蒔く人]]』が創刊され、昭和初期にかけて[[プロレタリア文学]]運動に発展した。また大正13年には、演劇で[[小山内薫]]が[[築地小劇場]]を創立し、[[新劇]]を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。