「シケリア戦争」の版間の差分
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シケリアでは、ドーリア人都市のセリヌスとエリミ人都市の[[セジェスタ|セゲスタ]]が再び競合していた。セリヌスはセゲスタの土地に進入し、[[紀元前416年]]にセゲスタに勝利した。カルタゴは救援要請を拒絶したが、[[アテナイ]]はセゲスタ救援のため遠征軍を派遣した。しかし紀元前413年にシケリア・[[スパルタ]]連合軍に敗北する。セリヌスは紀元前411年に再びセゲスタに勝利する。このときにセゲスタはカルタゴに従属することを求めてきた。ここに至ってカルタゴはハンニバル・マゴが率いる救援軍を派遣し、紀元前410年にセリヌスに勝利した。カルタゴは、より大きな軍を編成する一方、外交的解決を求めた。
カルタゴ、セゲスタ、セリヌスおよびシュラクサイの間で何回かの交渉が行われたが、セゲスタとセリヌスの和解は失敗した。このため、ハンニバル・マゴは前回より大きな軍を率いてシケリアへ向かった。シュラクサイからの援軍があったにも関わらず、紀元前409年春にカルタゴは[[セリヌス包囲戦
他方、シケリアで最も強大な都市国家であるシュラクサイとアクラガスはカルタゴに対する策をとらなかった。しかしこの政策に反対したシュラクサイの将軍[[ヘルモクラテス]]は、私的に小さな軍を組織してセリヌスのアクロポリスを再建し、そこを根拠地としてカルタゴ領に襲撃を行った。その後ヘルモクラテスはシュラクサイに戻ろうとして阻止され戦死したが、その前にモティアとパノルムスに勝利した。この活動の報復として、[[紀元前406年]]にハンニバル・マゴは三度目のシケリア遠征を実施した。
しかしながら、この遠征ではカルタゴ軍は激しい抵抗に会い、また不運も重なった。[[アクラガス包囲戦
[[File:Gastraphetes - Biton's catapult - catapulta di Bitone.jpg|thumb|モティア包囲戦で使われたカタパルト]]
紀元前398年までに、ディオニュシオスは勢力を再建して平和条約を破り、[[モティア包囲戦
ディオニュシオスは再び軍を再建し、[[紀元前396年]]にソルスを破壊した。紀元前396年から393年にかけてはタウロメニウム(現在の[[タオルミーナ]])包囲戦([[:en:Siege of Tauromenium (394 BC)|en]])を含み、シケリア東部で活動した。この間、カルタゴはアフリカでの反乱鎮圧に忙殺されていた。紀元前393年、ヒミルコの後継者となったマゴはメッセネを攻撃したが、アバカエヌムの戦い([[:en:Battle of Abacaenum|en]])でディオニュシオスに敗北した。カルタゴ本国からの増援を受け、マゴはシケリア中央部に対する遠征を開始したが、クリサス川の戦い([[:en:Battle of Chrysas|en]])で敗北した。しかしディオニュシオス自身も困難に直面していたため、おおむね現状の勢力圏を認める講和条約が結ばれた。
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