「伊東輝悦」の版間の差分
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[[楢崎正剛]]に抜かれるまでは、Jリーグディビジョン1の最多出場記録を保持していた。
== 来歴 ==
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[[東海大学付属翔洋高等学校|東海大学第一高校]]に進学。同校は2学年上に[[森島寛晃]]、後に[[アトランタオリンピックにおけるサッカー競技|アトランタオリンピック]]代表となる服部年宏(1年先輩)、[[松原良香]]、[[白井博幸]]らを始め、後にJリーガーとなる選手が数人いたが、[[静岡市立清水商業高等学校|清水商業]]、[[静岡県立清水東高等学校|清水東]]、[[静岡学園中学校・高等学校|静岡学園]]などの壁に阻まれ[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権]]には一度も出場できず、地元開催で2枠の出場があった1991年度[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]]での準優勝のみが目立った成績となった(決勝戦の相手は[[静岡県立清水東高等学校|清水東]]で、後に[[清水エスパルス]]でチームメイトとなる田島宏晃、[[斉藤俊秀]]が所属していた)。
しかし、静岡県選抜としては国体2年連続優勝に貢献。各世代の日本代表にも選ばれるなど評価は高く注目されていた。「ゴムまりのようなドリブル」で一気に数人を抜き去るようなプレーから、
高校卒業後、[[1993年]]に地元の[[清水エスパルス]]に加入した。1994年6月11日のJリーグ・サントリーシリーズ第21節ガンバ大阪戦でプロ初出場を記録した。プロ3年目の[[1995年]]から頭角を現わした。同年[[11月8日]]のホーム[[鹿島アントラーズ]]戦で相手を3人抜き去って決めたゴールは語り草となっている。また、当時U-22日本代表監督だった[[西野朗]]に促され、「最大の転機」というボランチへの転身を果たす<ref name="number"/>。ただし、状況によっては攻撃的MFとしてチャンスメイクを果たした。
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[[1999年]]に[[スティーブ・ペリマン]]監督の下、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]2ndステージ優勝を果たし、この年の[[Jリーグベストイレブン]]に選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、この頃から攻撃的なプレーが少なくなる。
フランスW杯後に就任した[[フィリップ・トルシエ]]監督の下では運動量と守備的意識を買われ、
[[2007年]][[11月11日]]の[[サンフレッチェ広島]]戦(日本平)にて、[[藤田俊哉]]に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初)。[[2008年]][[5月11日]]の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、[[2009年]][[6月27日]]の[[FC東京]]戦([[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立]])にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。
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