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Ohtani tanya (会話 | 投稿記録)
2016年11月21日 (月) 14:13の版まで差し戻し(お掃除)、無出典のプレースタイルに関する記述を節ごと除去(PJサッカー選手での議論に基づく)。まだまだ要清掃…
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[[楢崎正剛]]に抜かれるまでは、Jリーグディビジョン1の最多出場記録を保持していた。
 
== 人物・評価・プレースタイル==
元々はドリブルを武器にする攻撃的選手だったが、プロ入り後に[[ミッドフィールダー|ボランチ]]へ転向。黒子的な役割を全うする職人的プレーヤーとなり、日本代表監督であった[[フィリップ・トルシエ]]は伊東を「日本の[[ディディエ・デシャン|デシャン]]」と評した。またアトランタ五輪代表では、表のエースである[[前園真聖]]に対して影のエースと呼ばれ、監督の[[西野朗]]から絶大な信頼を受けていた。
 
ディフェンシブなポジションであるにも関わらず被警告数が極端に少ないフェアプレーも特徴である。本人曰く「ファウルで(相手を)止めるのは簡単だが、それでは成長がない」。体格的に恵まれないため、力ではなく相手の先を読みボールを奪う技術に優れ、奪った後のボールが味方へのパスになるようプレーをしている<ref>『[[土曜スポーツタイム]]』(2008年10月4日、[[日本放送協会|NHK]])</ref>。
 
== 来歴 ==
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[[東海大学付属翔洋高等学校|東海大学第一高校]]に進学。同校は2学年上に[[森島寛晃]]、後に[[アトランタオリンピックにおけるサッカー競技|アトランタオリンピック]]代表となる服部年宏(1年先輩)、[[松原良香]]、[[白井博幸]]らを始め、後にJリーガーとなる選手が数人いたが、[[静岡市立清水商業高等学校|清水商業]]、[[静岡県立清水東高等学校|清水東]]、[[静岡学園中学校・高等学校|静岡学園]]などの壁に阻まれ[[全国高等学校サッカー選手権大会|高校選手権]]には一度も出場できず、地元開催で2枠の出場があった1991年度[[全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会|高校総体]]での準優勝のみが目立った成績となった(決勝戦の相手は[[静岡県立清水東高等学校|清水東]]で、後に[[清水エスパルス]]でチームメイトとなる田島宏晃、[[斉藤俊秀]]が所属していた)。
 
しかし、静岡県選抜としては国体2年連続優勝に貢献。各世代の日本代表にも選ばれるなど評価は高く注目されていた。「ゴムまりのようなドリブル」で一気に数人を抜き去るようなプレーから、「静岡の[[ディエゴ・マラドーナ」、または|マラドーナ]]をもじって「'''テルドーナ'''」とも呼ばれ<ref name="number">吉崎エイジーニョ"[http://number.bunshun.jp/articles/-/124843 鉄人に訊け 伊東輝悦さん、長く続ける秘訣は何ですか?]". Number Web.(2011年5月24日)2013年9月11日閲覧。</ref>、普段は淡々とプレーしていることとのギャップから、当時のチームメイト達に「あいつが本気になったら誰もかなわない」と言わしめた。
 
高校卒業後、[[1993年]]に地元の[[清水エスパルス]]に加入した。1994年6月11日のJリーグ・サントリーシリーズ第21節ガンバ大阪戦でプロ初出場を記録した。プロ3年目の[[1995年]]から頭角を現わした。同年[[11月8日]]のホーム[[鹿島アントラーズ]]戦で相手を3人抜き去って決めたゴールは語り草となっている。また、当時U-22日本代表監督だった[[西野朗]]に促され、「最大の転機」というボランチへの転身を果たす<ref name="number"/>。ただし、状況によっては攻撃的MFとしてチャンスメイクを果たした。
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[[1999年]]に[[スティーブ・ペリマン]]監督の下、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]2ndステージ優勝を果たし、この年の[[Jリーグベストイレブン]]に選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、この頃から攻撃的なプレーが少なくなる。
 
フランスW杯後に就任した[[フィリップ・トルシエ]]監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ほとんどついにレギュラー場合で座を獲得。トルシエ時代にはボランチ以外に右ウイングバックとして起用されることも多かった。[[2000年]]の[[ルナー・ニューイヤー・カップ|カールスバーグカップ]]・[[サッカーメキシコ代表|メキシコ]]戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督から絶大な信頼を得る(合宿終了後にゲームキャプテンから一言と言われた際、寡黙な性格のためか「お疲れ様でした」の一言しか言わなかった)。しかし、[[2002年]]の[[2002 FIFAワールドカップ|日韓W杯]]メンバーには、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。
 
[[2007年]][[11月11日]]の[[サンフレッチェ広島]]戦(日本平)にて、[[藤田俊哉]]に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初)。[[2008年]][[5月11日]]の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、[[2009年]][[6月27日]]の[[FC東京]]戦([[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立]])にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。