「六条有房」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
25行目:
 
== 経歴 ==
前半生の官歴は定かでないが、恐らく[[近衛次将]]などを経ながら、[[大覚寺統]]の[[亀山天皇|亀山]]・後宇多院に近侍していたのであろう。[[永仁]]6年([[1298年]])7月[[従三位]]に叙されて[[公卿]]に列し、[[正安]]元年([[1299年]])12月[[正三位]]に進んだ。同3年([[1301年]])[[後二条天皇]]が[[践祚]]して後宇多上皇が[[院政]]を始めると、[[左大弁]]・[[造寺司|造東大寺長官]]を兼ね<ref>[[清華家]]出身者の[[弁官]]兼帯は異例のことで、亀山天皇の近臣[[久我具房]]の先例に従った措置と思われる。</ref>、[[参議]]に任じられ。[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[1302年]])12月[[侍従]]、翌2年([[1303年]])1月[[従二位]]・[[権中納言]]に叙任されるもたが間もなく辞任。[[嘉元]]2年([[1304年]])5月祖父[[久我通光]]の[[影供]]をした<ref>『[[続門葉和歌集]]』</ref>。同3年([[1305年]])3月権中納言に還任し、11月[[院使]]として[[鎌倉]]に下り、朝幕間の交渉に当たった。[[徳治]]元年([[1306年]])12月[[正二位]]、同3年([[1308年]])1月[[権大納言]]に叙任されたが、8月天皇が重篤になると辞した。
 
その後皇統が[[持明院統]]に移ったために再び不遇となる。[[文保]]2年([[1318年]])後宇多院政が再開する直前の[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]には[[従一位]]に叙されたが、翌[[元応]]元年([[1319年]])病に倒れ、[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]「所労危急」のため上首2人([[中院通重]]、[[花山院師信]])を超越して[[内大臣]]に任じられた。これは後宇多法皇の[[詔]]によって前任[[一条内経]]を更迭し、[[兼宣旨]]や[[任大臣節会]]を行わず、[[陣儀]]で[[口宣]]を下すという異例の措置であった<ref>『[[公卿補任]]』によれば、[[元暦]]元年([[1184年]])の[[徳大寺実定]]還任の先例に従ったものだという。</ref>。2日後の[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]法皇自ら見舞いに訪れた際、病床に臥したまま拝謁し、辞職を願い出て[[出家]]した。[[法名]]は'''有真'''または'''戒浄'''<ref>『[[建内記]]』[[永享]]11年6月16日条。『公卿補任』の「法名有真(有直)」は誤伝ないしは別名か。</ref>という。[[薨去]]したのは明くる[[7月2日 (旧暦)|2日]]であった。[[享年]]69。