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もっとも、このような危険性はディベートに限ったことではない。ニヒリズムについての[[ハンナ・アーレント|ハンナ・アレント]]の言葉<ref>[[ハンナ・アーレント|ハンナ・アレント]]著、佐藤和夫訳『精神の生活』岩波書店、1994年。ハンナ・アレントは、ニヒリズムやマルキシズムのはらむ危険性は決してそれらに特有のものではなく思想一般に内在するものであるとして「危険思想は存在しない。思想そのものが危険なのである。」と述べている。</ref>から飛躍し、危険な議論は存在せず、議論そのものが危険なのであるとも言える。このことは、歴史教育の手法としての教育ディベートに対する批判<ref>[[藤岡信勝]]や北岡俊明といった自称“歴史教育の研究者”による教育ディベートは厳しい批判の対象となっている。ちなみに北岡は経済学部卒で本業は経営評論家</ref>にも当てはまる<ref>佐貫浩・神原昭著、彦藤原彰・森田俊男編「藤原信勝氏のディベート論について」『近現代史の真実とは何か』大月書店、1996年。「教室でのディベートの論題には、その結論がまだ確定しておらず、あるいはどう考えるかが論争的であるようなもののほうが有効」とし、藤岡らが提起する歴史認識については結論が確定しているかのような見解を示しているが、その根拠は明確でない。</ref><ref>柿田秀樹「レトリックとディベートの政治的本質:倫理批評実践」『JDA Newsletter Vol.XIV, No.4:日本におけるディベートの普及について(その3)』日本ディベート協会、1999年。柿田は、北岡のディベートの捉え方自体を「資本主義の言説を何の懐疑も持たずに鵜呑みにしている査証であり、それこそがディベートの掲げる批判精神を裏切るもの」として批判する。</ref>。
 
ディベートが日本人や日本文化に合わないとする議論もある。「つつましさと思いやりの美徳」をもち、対立を好まない日本人のコミュニケーションの方がいいという<ref>例えば、[[榎本博明]](『ディベートが苦手、だから日本人はすごい』[[朝日新書]] 2015年)。</ref>。
 
== 競技ディベート(最狭義のディベート) ==