「花井吉成」の版間の差分

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[[三河国]]東部に[[松下氏]]傍流の家に生まれる。若くして[[徳川家康]]の近習として仕えた。関東転封([[1590年]])の直前、家康が遠江の鷹狩で見初めた茶阿には当時3歳になる娘(於八)がおり、これを後に妻とした。
慶長8年([[1608年]])、家康の命により家康と茶阿の子である六男の忠輝が、[[川中島藩]]主で[[松代城|海津城(のちの松代城)]]城主松平忠輝の家臣となる。慶長15年に忠輝は加増され、[[越後国]][[高田藩]]主となったが、松代を含む北信四郡もそのまま領したので、吉成が城代を務めた。吉成父子は[[北国街道]]の改修や、[[裾花川]]の瀬直しおよび[[犀川 (長野県)|犀川]]より[[長野盆地|川中島平]]へ用水路を引き水田開発をするなどの政策を行った。そして、これらの土木事業は領民に感謝され、今でも花井神[[花井神社|社]]して祀られている。
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* [[1614年]]([[慶長]]19年)[[松平忠輝]]配下の海津城主の花[[花井神社|井吉成に宛がい与力分として6千石が与えられた中に桑原村、若宮村、内川村の名が見られる。他に]][[更級郡]]の四ツ屋村、二柳村、とふくじ(東福寺)村、今井村、[[水内郡]]のなかごい(中越)村、[[高井郡]]の沼目村が列記されている(花井家文書)
 
慶長18年8月21日に死去、法名は摩尼宝殿覚月照徹大禅定門。墓所は長野市松代町松代の西念寺。吉成の没後、子の義雄が待城の城代となる。