「大都映画」の版間の差分

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Fumiosawa (会話 | 投稿記録)
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大都映画の製作方針は、完全に娯楽に徹することであった。観客をハラハラさせたり泣かせたりすることに特化し、1年間に100本もの映画を大量生産した。メジャー他社や評論家からは粗製乱造及び内容が無いなどと酷評されたが、観衆からは理屈抜きに面白い大都映画は圧倒的に支持された。
 
大都映画の創始者河合徳三郎の「楽しく、安く、速く」をコンセプトに、「敢て高尚を狙わず、上品振ろうとはせず、所謂批評家と称する人々には低級と云われようとも意に介さずして製作方針に更改を加えようとはせぬ」(昭和10年10月5日『国際映画新聞159号』から)とされて粗製乱造と言われても方針は変えなかった<ref>「幻のB級 大都映画がゆく」82~83P参照</ref>。他の会社からは「B級三流」と揶揄されながらも、河合徳三郎は「女給と工員と丁稚や子守っ子たちに喜ばれればいい」と明言していた。そこには映画を余裕を持って見れる月給取りや学者や学生でなく、小銭をかき集めて映画館に駆けつけて日々の暮らしの疲れを映画の楽しさや面白さで吹き飛ばそうとする貧しい人々が彼の映画の観客であることを彼自身がイメージしていたからである<ref>「幻のB級 大都映画がゆく」47P参照</ref>。
 
ゆえに松竹の映画館が50銭の入場料ならば大都は30銭として、子どもは5銭であったという。毎週2本立てで封切り、翌週はまた違う新作を上映する。1950年代後半から60年代前半に東映などが行ったプログラムピクチャーを戦前の時代にすでに大都映画が行っていたことになる。河合映画から大都映画に変わった1933年以降毎年の製作本数は103本(1933年)ー104本ー109本ー106本ー110本ー103本ー102本ー87本ー36本ー4本(1942年)で1937年の日中戦争時には最大の110本を製作していた<ref>「幻のB級 大都映画がゆく」77P参照</ref>。これは1系統としては最大の製作本数である(1960~1961年の東映は2系統でこの数字を上回ったが1系統としては104本が最高である)。そして河合映画から通算して15年間で総製作本数は1,294本(1,325本という説もある)に達した<ref>「幻のB級 大都映画がゆく」21P参照</ref>。
 
製作された映画フィルムの多くは戦災で焼失して現存していないが、近年地元の巣鴨を中心として、その存在は再評価されている。
 
== 主な作品と俳優 ==
女優で[[琴糸路]]、[[鈴木澄子]]、[[久野あかね]]、 [[橘喜久子]]、[[大山デブ子]]、水川八重子、[[木下双葉]]、[[佐久間妙子]]。男優で[[杉狂児]]、[[市川百々之助]]、[[山本礼三郎]]、[[ハヤフサヒデト]]、[[大乗寺八郎]]、[[藤間林太郎]]、[[水島道太郎]]、[[近衛十四郎]]、[[阿部九州男]]といったスターを擁し、時代劇、[[新派]]ふうの悲恋物、現代物の痛快アクション、そしてコメディからなるラインナップで人気を博した。映画料金もメジャー他社より一段安いところが観衆には魅力だった。その分製作は徹底した低コストで、一週間以内に撮影を済ませる早撮りで量産した。また所属する女優陣の中には河合徳三郎の娘が3人いて、正妻の娘1人と別の女性に生ませた娘が2人おり、しかも主役を演じている<ref>「幻のB級 大都映画がゆく」93~106P参照</ref>。