「細川真之」の版間の差分

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天文7年(1538年)、阿波守護・細川持隆の子として誕生。
 
天文22年([[1553年]])、父・持隆が[[三好実休]]によって殺害されると、その傀儡として擁立された(この時に母・小少将は実休の妻となった)。実休死後もその子・長治(真之の異父弟)に傀儡として利用されたため、真之は大いに不満を持ち、天正4年([[1578年]])12月に[[勝瑞城]]を脱出して[[福良連経]]を頼って[[那賀郡]]の[[仁宇山]]中に逃れて再起を図った(『昔阿波物語』)。天正6年([[1578年]])に同じく長治に対して不満を持つ[[小笠原成助]]らと手を結び、[[土佐国]]の[[長宗我部氏]]に救援を求めて長治を討った。
 
これを良しとしない[[三好越後守]]、[[矢野国村]]、[[河村左馬亮]]らは、[[三好氏]]の一門で[[讃岐国]]の[[十河氏]]を継いだ十河存保(真之の異父弟)を擁立し[[勝瑞城]]に迎える。天正7年([[1579年]])には細川方の有力国人だった[[伊沢頼俊]]が滅ぼされるなど真之にとって戦況は不利であった。一方で土佐国の[[長宗我部元親]]は、はじめ[[織田信長]]と同盟を結び阿波三好氏との抗争を優位にすすめてきたが、その後三好氏の後援にまわった[[織田氏]]と敵対し、信長の四国侵攻の脅威に晒されていた。ところが、天正10年(1582年)6月に存保の後ろ盾であった織田信長が[[本能寺の変]]で横死すると、同年8月に元親は阿波国へ侵攻。十河存保は敗れ、阿波統治の本拠である勝瑞城を失い、讃岐虎丸城に撤退を余儀なくされた([[中富川の戦い]])。
 
天正10年(1582年)に死去。『三好記』によると、同年10月に十河存保は再び阿波国へ侵攻し、江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進ら数百名の軍勢を遣わして真之の[[茅ヶ岡城]]を攻めさせ、敗れた真之は八幡原にて自害し、阿波細川家は滅亡したという。真之の死去は中富川の戦いの敗北により十河存保が讃岐国へ撤退後の日付であること、先の敗戦で回復困難な痛手を負った十河軍が阿波に再侵攻し茅ヶ岡城を攻めたという経緯には疑問が呈されており、また襲撃した江村達を「山林の逆徒」と記していることからそれまで真之に従っていた阿波の国人であったとする説もあり、長宗我部元親による旧勢力の粛清も指摘されている(小笠原成助や[[新開実綱]]といった有力者はこの時期に元親により謀殺されている)。