「妙顕寺 (京都市)」の版間の差分

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[[嘉慶]]元年([[1387年]])、[[比叡山]][[衆徒]]により[[伽藍]]が破却され、寺は[[若狭国|若狭]][[小浜市|小浜]]に避難する。[[明徳]]4年([[1393年]])、[[足利義満]]の[[斡旋]]により、三条坊門堀川(現中京区堀川御池)に伽藍を再建し、寺号を妙本寺と改めた。[[応永]]18年([[1411年]])には[[足利義持]]の[[祈願寺]]となっている。応永20年([[1413年]])、寺は比叡山衆徒により再び破却され、[[永正]]18年([[1521年]])、[[足利義稙]]の命により、二条西洞院(現中京区)に再建されている。その前後、永正・[[大永]]頃([[1504年]] - [[1528年]])に寺号を妙顕寺に戻している。
 
[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])、[[法華一揆|天文法華の乱]]で伽藍を焼失し、寺は[[堺市|堺]]に避難するが、天文11年([[1542年]])、[[後奈良天皇]]は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難していた法華宗寺院は相次いで京に戻った。妙顕寺は天文17年([[1548年]])、二条西洞院に再建されるが、[[天正]]12年([[1584年]])、[[豊臣秀吉]]の命により、現在地に移転した。そして秀吉は妙顕寺跡地に二条第[[二条城|妙顕寺城]]を築く。[[天明]]8年([[1788年]])、[[天明の大火]]により焼失し、その後再建されている<ref>「歴史」節は『日本歴史地名大系 京都市の地名』(平凡社、1997)、pp.575 - 576、による。</ref>。
 
== 文化財 ==