「地動説」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m cewbot: 修正ウィキ文法 69: ISBNの構文違反
全般に修正
1行目:
'''地動説'''(ちどうせつ)とは、宇宙の中心は太陽であり、地球は他の[[惑星]]と共に太陽の周りを[[自転]]しながら[[公転]]している、という学説のこと。宇宙の中心は地球であるとする[[天動説]](地球中心説)に対義する学説であり、[[ニコラウス・コペルニクス]]が唱えた。彼以前にも太陽を宇宙の中心とする説はあった。'''太陽中心説'''({{lang-en-short|Heliocentrism}})ともいうが、地球が動いているかどうかと、太陽と地球どちらが宇宙の中心であるかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。聖書の解釈と地球が動くかどうかという問題は関係していたが、地球中心説がカトリックの教義であったことはなかった<ref name="プリンチペ" />。地動説(太陽中心説)確立の過程は、宗教家(キリスト教)に対する科学者の勇壮な闘争というモデルで語られることが多いが、これは19世紀以降に作られた神話ストーリーであり、事実とは異なる<ref name="プリンチペ" />。
[[ファイル:Heliocentric.jpg|thumb|220px|right|地動説の図]]
 
5行目:
=== 古代の地動説 ===
[[File:Geoz wb en.svg|thumb|250px|地動説(下部の図)、天動説(上部の図)の二つの模型の比較。]]
古く紀元前4世紀の[[アリストテレス]]の時代から[[コペルニクス]]の登場する[[16世紀]]まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという[[天動説]]が信じられてきた。そもそも古代において、実際に自分の眼で見て、1日1度太陽が地平線の上に昇り、そして地平線下に下り、太陽以外の天体も同じように動いている以上、その現象をそのまま受け取って解釈するのが普通であった。
 
しかしながら[[月]]に関しては他の天体と動きが異なる事、さらに天体観測が発達すると[[惑星]]が他の天体と違った動きをする事(特とり、更に、時おり天球上を逆方向に動く事)が認識された([[順行・逆行|逆行]])
 
そうした中、[[コペルニクス]]よりも以前に、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところでは紀元前5~4世紀前後の[[フィロラオス|ピロラオス]]で、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを[[公転]]すると考えた。また、同時代の[[プラトン]]も善の[[イデア]]である[[太陽]]が[[宇宙]]の中心にあると考えていた。
 
特に傑出していたのは、紀元前3世紀のイオニア時代の最後の[[アリスタルコス]]である。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心としてに据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。そしてこれにより、惑星の[[順行・逆行|逆行]]を完璧に説明できるのである。これはほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった<ref name="cosmos_1">[[カール・セーガン]]著 木村繁訳『コスモス 下』 P.49 史上初の地動説 ISBN 4-02-260270-8 </ref>。
 
なお、後世の[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]もまた、地動説に関する内容を[[レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿|レスター手稿]]に記している。
 
広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。
 
=== 天動説の優勢 ===
[[2世紀]]には[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]、[[ヒッパルコス]]、[[クラウディオス・プトレマイオス]]が天動説を体系化した。彼らは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見からに基づき、科学的合理的な判断解釈の帰結として天動説を唱えた。これに対し、アリスタルコスの地動説の弱点は、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのか、その説明ができなかった事であるが弱点とされた一方でまた、アポロニウスの提唱した[[従円と周転円]]の概念、さらにプトレマイオスの提唱した[[エカント]]の概念は、惑星の逆行得て天動説は当時の天体観測の精度において、惑星の逆行をほぼ完璧に説明できた。
 
とはいえ、おかしなところは存在した。例えば
24行目:
* 惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
* 火星の逆行に関しては、やや誤差が多い
などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密惑星の位置予報出来る他の説はなかなか現れなかった。
 
また、ヨーロッパでは[[古代ギリシア]]時代以降科学は停滞し、[[西ローマ帝国]]滅亡後は[[暗黒時代]]を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのは[[ルネサンス|ルネッサンス]]以降である。
33行目:
[[天動説]]の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。
 
[[大航海時代]]以前は船舶の運専ら沿岸航海であり陸地が見える場所しか船を運航しなかった。範囲に限られ、何も目印のない大海原では行き先が分からず、遠洋を航行できなかった。[[羅針盤]]登場したとで陸地離れた航行が可能にしとなり、[[方位磁石]]と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった<ref>高橋訳『天球回転論、誰も読まなかったコペルニクス』</ref>。特に[[惑星]]の位置は数度単位での誤差が常にあった。
 
さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていた[[ユリウス暦]]の1年は、[[回帰年|観測される1年]]よりわずかにかったのである。この結果、紀元前45年制定以来千年以の[[季節]]経つうちに暦実際天体季節運行約10日のずれが生じ、例えば暦の上の春分の日が3月21日であるのに対して、実際に観測される[[春分点|春分]]は10日早い3月11日となっていた。春分の日は、キリスト教では春分最も重要な行事日が移動祝一つである[[復活]]日付を計算するうえで基準日にっておる日であり、これが10日もずれているのは問題があった。この問題は[[ロジャー・ベーコン]]によって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。
 
一般に言う1年は厳密には[[回帰年]]であり<!--当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年([[回帰年]])-->、その定義は、[[分点]]または[[至点]]から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で<ref>アルマゲスト</ref>、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。
 
=== コペルニクスの登場 ===
43行目:
[[カトリック教会]]の[[司祭]]であった[[コペルニクス]]は、この誤差に着目した。彼は{{要出典|範囲=地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ|date=2015年3月}}、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスは[[アリスタルコス]]の研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて[[公転]]するものとして、1[[恒星年]]を365.25671日、1[[回帰年]]を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。
 
コペルニクスは[[1543年]]没する直前、彼の思索をまとめた著書『[[天体の回転について]]』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである<ref>世界大百科事典</ref>。
 
またこの業績について、[[ガリレオ・ガリレイ]]から「太陽中心説を復活させた」と評された<ref name=cosmos_1/>。
 
=== コペルニクス以降の学説 ===
その後、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世]]によって[[1582年]]に[[グレゴリオ暦]]が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用さ取り入られなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使わ取り入れられていない
 
しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(コペルニクス。なお、この月の運行理論は、アラビアとは独立にコペルニクスが再発見したという説もある
 
== コペルニクスの地動説 ==
=== 理論 ===
コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む全惑星の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と相互に関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう<ref>トーマス・クーン 著 『コペルニクス革命』 常石敬一 訳、講談社、1989年</ref>。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。
 
コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である<ref>この時代、天王星や海王星、小惑星はまだ発見されていない。</ref>。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動き説明がつかできず、コペルニクスの著書では、周転円や中心から外れた太陽が引き続き用いられた<ref name="プリンチペ" />。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった(実際には<ref>なお、コペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった。</ref>。『天体の回転について』は彼の死の直前に出版されたが、コペルニクスが恐れたような批判は起こらなかった<ref name="プリンチペ" />。本は読まれたが、ほとんどの読者は説得されず、支持者はほぼいなかった<ref name="プリンチペ" />。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さ算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかった。彼の理論はそれまでの地球中心説より観測データと適合するということも、自然学的に見てシンプルだということもなかった。動く地球というものが基礎的な自然学や常識、おそらく聖書と衝突しており、彼の説が真実だと考えることは困難だった<ref name="プリンチペ" />。物体は宇宙のもっとも低い地点である宇宙の中心に自然に落下すると考えられていたが、コペルニクスの説では、地球が太陽の方に落下しない理由はわからなかった<ref name="プリンチペ" />。また地球が24時間で一回転するなら非常に高速で動いているはずであるが、動きを感じることはできず、空を飛ぶ鳥が置き去りにされることもなかった。地球が太陽の周りを回るなら星々は[[年周視差|視差]]を示すはずだが、視差は観察されなかった。視差がないということは、地球が動いていないか、恒星が不可解なほど遠くにあるということを示していた。視差がなく、地球が動いていると仮定するならば、恒星は最も短く見積もっても2400億キロメートルの彼方にあることになるが、その遠大な空隙は読者にとって不可解なものであった<ref name="プリンチペ" />。
<!--
=== 科学的方法論 ===
64行目:
以上の理由により、コペルニクスの体系を真実と考える人はほとんどいなかったが、そもそも当時の多くの天文学者は、太陽と地球のどちらが宇宙の中心であるかを確実に説明できるとは考えていなかった<ref name="プリンチペ" />。彼らが欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。当時は[[占星術]]が気象予測や医療において実用的に大きな意味を持っており、過去・現在・未来の惑星の位置を分単位で計算する必要があったためである。惑星の位置を決定するための表は、太陽中心体系の方が簡単であり、コペルニクスの体系は便利な虚構として利用された<ref name="プリンチペ" />。
 
コペルニクスの著書では計算に必要な値があちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であったため、[[1551年]]に、[[エラスムス・ラインホルト]]が、コペルニクス説を取り入れた『[[プロイセン表|プロイセン星表]]』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、った。また誤差もわずかにプロイセン星表の方が小さいといえプトレマイオス説と大して変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られた[[アルフォンソ天文表|アルフォンソ星表]]が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。
 
それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。他にも似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説を使用しに基づいも、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性地位は大きく揺らいだ。
 
[[ティコ・ブラーエ]]は、恒星の[[年周視差]]が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを[[公転]]するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けば[[ヨハネス・ケプラー]]だった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり<ref>助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない。</ref>、ブラーエの膨大な観測記録からを土台として[[1597年]]、「宇宙の神秘」を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、[[ガリレオ・ガリレイ]]もまた地動説を唱えた。
 
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。まず実験によって[[運動の第1法則|慣性の法則]]を発見した。これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、なぜ空を飛んでいる鳥は地球の自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石は地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、[[木星]]の[[衛星]]を発見し、地球が動くなら[[月]]は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にし封じた。また、ガリレオは[[金星]]の満ち欠けも観測。これは、[[地球]]と[[金星]]の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは[[太陽]]黒点も観測。太陽もまた[[自転]]していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。
 
== ガリレオ裁判 ==
{{main|ガリレオ・ガリレイ#ガリレオ裁判}}
[[ジョンズ・ホプキンス大学]]の[[科学史]]教授{{仮リンク|ローレンス・M・プリンチペ|en|Lawrence M. Principe}}は、「ガリレオと教会」ほど、神話と誤解に満ちたエピソードはないと指摘している<ref name="プリンチペ" />。知的・政治的・個人的問題がからみあって起きた事件であり、いまだ完全に解明されていないが、「宗教対科学」という単純な構図ではなかったことが分かっている<ref name="プリンチペ">ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年</ref>。科学と宗教の対立という構図は、19世紀に科学者によってつくられた神話ストーリーである<ref name="プリンチペ" />。
 
地球中心説がカトリック教会の正式な教義であったことはなく、教会は地球中心説と太陽中心説のどちらが真実かという問題に直接利害関係を持っていなかった。ガリレオの支持者と反対者は教会の中と外の両方に存在しており、ガリレオの最初の主要な支持者はイエズス会の天文学者たちであった<ref name="プリンチペ" />。[[異端審問|宗教裁判所]]がガリレオよる出した地球の運動を撤回するようにという命令は、タイミングの悪さや政治的陰謀、教会の派閥争い、聖書の解釈権、友人だったローマ教皇[[ウルバヌス8世]](マッフェオ・バルベリーニ)とのいさかいなどから起こったと考えられている<ref name="プリンチペ" />。聖書の解釈権を有しているのは教会であったが、「動く地球」が聖書の解釈に関わっており、ガリレオは1610年代にこの問題について、自説を擁護するために性急に口出しをしていた<ref name="プリンチペ" />。自分の主張を通すために伝統的な解釈を拒否するというやり方は、同時代の[[プロテスタント]]に似ていた<ref name="プリンチペ" />。ガリレオはウルバヌス8世と、太陽中心説と地球の運動の明らかな証拠が出るまで仮説として扱うという約束をし、『天文対話』を書く許可を得た<ref name="プリンチペ" />。しかし、ヴァチカンの許認可官と検閲官の承認を得て本が世に出ると、ウルバヌス8世は、約束した内容は最終ページでわずかに触れられるのみで、しかも道化役を演じた人物から語られていることを知った<ref name="プリンチペ" />。[[三十年戦争]]に関する外交交渉、政争や批判で疲弊していたウルバヌス8世は侮辱されたと感じて激怒し、[[異端審問|宗教裁判所]]による司法取引の提案を拒み(司法取引が認められれば、ガリレオは軽微な罪とされ自宅に帰されるはずだった)、ガリレオに地球の運動を撤回するように命じ、ガリレオはこれに同意した<ref name="プリンチペ" />。しかしウルバヌスの甥を含む[[枢機卿]]たち数人は、ガリレオの判決文に署名することを拒否しており、教会の総意でなかったことがわかる<ref name="プリンチペ" />。
 
その後ガリレオはトスカーナにある自分の別荘に軟禁され、そこで仕事をつづけ、弟子を教え、最も重要な本『新科学論議』を書いた<ref name="プリンチペ" />。今日では、ガリレオは異端として断罪された、投獄されたといわれることも多いが、誤りである<ref name="プリンチペ" />。裁判の際にガリレオが「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードに証拠は存在しないが、伝説として現在に至るまで象徴的に語り継がれている。
 
== ガリレオ裁判以降 ==
ガリレオの判決の影響を正確に推し量ることはむずかしい。[[ルネ・デカルト]]など何人かの[[自然哲学]]者は、コペルニクス説への確信を表明しようとしなくなった<ref name="プリンチペ" />。カトリックの聖職者はコペルニクス体系を公然と支持できなくなり、ティコ・ブラーエの体系かその変形版を採用した<ref name="プリンチペ" />。しかし一方で、天文学を含む科学的探究は、イタリアやほかのカトリック国でも行われ続けていた<ref name="プリンチペ" />。[[ヨハネス・ケプラー]]は、[[神聖ローマ帝国]]皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。
 
コペルニクスの説は、未だ天体は円運動をするというそれ以前従来の常識に縛られており、プトレマイオスの天動説と同様に周転円を用いて惑星の運動を説明していた。ケプラーはティコ・ブラーエの観測記録を丹念に研究し、惑星の軌道が楕円の法則をあてはめればと仮定するとより単純かつ正確に惑星の軌道を説明できる事を発見し、それを元に『[[ルドルフ表]]』(ルドルフ星表)を作り、[[1627年]]、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、[[惑星]]の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。ルドルフ表の精度の前には、未だ年周視差が観測できないという地動説の欠点は、些細な問題と考えられた。
 
しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、[[地球]]が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。ガリレオは慣性の法則を発見するも、その現象がなぜ起きるかの原因の説明には至らなかった。これを完成させるのは、[[アイザック・ニュートン]]の登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化すること、[[万有引力の法則]]を発見する事、科学において原因については仮説を立てる必要はないとする新しい方法論を提示する事で、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである
 
また、ガリレオやケプラーの地動説は、宇宙の中心を太陽とするものであった。ニュートンの万有引力の法則は、惑星が太陽を中心に公転するのは、単に太陽が惑星と比べて質量が極めて大きいからに過ぎない事を示し、太陽が宇宙の中心であるという根拠は存在しなかった。ニュートン以降も太陽が宇宙の中心とする考えに縛られていた研究者も多かったが(く、例えば[[ウィリアム・ハーシェル]]は[[銀河系]]が円盤状構造である事を発見しながら、太陽がその中心にあると考えた[[ウィリアム・ハーシェル]]など)、次第に太陽も数多くの恒星のひとつに過ぎないという認識が広まっていった。年周視差が未だ観測できない事は、恒星が惑星よりも遥かに遠方にある事を意味し、それでもなお地球まで光が届く事は、恒星が太陽に匹敵あるいは凌駕する規模の天体である事を意味していたからである。
 
ただし、地動説の証明を確固たるものとするには、[[ジェームズ・ブラッドリー]]の[[光行差]]の発見、[[フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]による年周視差の観測の成功も必要となる。
 
蛇足ではあるが、{{要出典|範囲=[[ローマ教皇庁]]ならびに[[カトリック教会|カトリック]]が正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、[[1992年]]の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた|date=2015年3月}}。
97行目:
 
== 太陽中心説とキリスト教 ==
地動説の解説のについて言及する、必ずといっていいほど、地動説が[[キリスト教]]の宗教家によって迫害されたという主張がされる。ローレンス・M・プリンチペは、「科学者」と「宗教家」の勇壮な戦いという19世紀後半に考案され普及した闘争モデルは、現在(2011年)においては、科学史家は皆否定していると述べている<ref name="プリンチペ" />。このモデルでは、歴史的な状況を正しく理解することはできない。ヨーロッパ近世初期の[[自然哲学]]者は、自然を知ることは神を理解することであると考えており、信仰と科学的探究に矛盾はなかった<ref name="プリンチペ" />。参考までに両論を併記する。
 
=== 迫害されたとされる根拠 ===