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その後も法皇の身辺に伺候したが、そのため寿永2年の[[源義仲]]による[[法住寺 (京都市)|法住寺殿]]襲撃([[法住寺合戦]])において義仲軍と戦うこととなり、戦場からの逃亡の途中、華山寺付近にて射殺された。
 
皇族である円恵の戦死は、同じく法住寺合戦で討たれた[[天台座主]]・[[明雲]]のそれとともに当時の貴族社会に衝撃を与え、[[九条兼実]]は『[[玉葉]]』(寿永2年11月22日条)において、「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」と慨嘆している。後に円恵法親王と天台座主・明雲の遺骨は高野山へ納められた
 
== 参考文献 ==