「マッダレーナ・ヴィスコンティ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
初版は de:Maddalena Visconti 2014年3月13日 (木) 12:09‎ からの翻訳
編集の要約なし
1行目:
'''マッダレーナ・ヴィスコンティ'''('''Maddalena Visconti''', 1366年頃 - [[1404年]][[8月24日]])は、[[ミラノ]]の僭主[[ベルナボ・ヴィスコンティ]]の娘。10万グルデンもの巨額の持参金を付けられ<ref>Aufgrund der Höhe ihrer Mitgift so bezeichnet etwa von Benno Hubensteiner, ''Bayerische Geschichte'', München 1952, S. 126. Ebenso Karin Kaltwasser, ''Herzog und Adel in Bayern-Landshut unter Heinrich XVI. dem Reichen (1393–1450)'', S. 8, Anm. 57 und S. 40, Anm. 201.</ref>、バイエルン公[[フリードリヒ (バイエルン公)|フリードリヒ]]の2番目の妻に迎えられた。夫の死後、その兄弟や甥たちとともに、未成年の息子[[ハインリヒ16世 (バイエルン公)|ハインリヒ16世]]が成人するまで所領の統治を代行した。
 
ベルナボ・ヴィスコンティと妻[[レジーナ・デッラ・スカラ]]の間の15人の子供の1人として生まれた。長姉[[タデア・ヴィスコンティ|タデア]]はバイエルン公[[シュテファン3世 (バイエルン公)|シュテファン3世]]に嫁ぎ、長兄{{仮リンク|マルコ・ヴィスコンティ・ディ・パルマ|de|Marco Visconti|label=マルコ}}はシュテファン3世の弟フリードリヒ公の娘{{仮リンク|エリーザベト・フォン・バイエルン (1361-1382)|de|Elisabeth von Bayern (1361–1382)|label=エリーザベト}}を妻に迎え、ヴィスコンティ家とヴィッテルスバッハ家の間にはすでに二重の縁組が成立していた。1381年9月2日、マッダレーナは義姉エリーザベト公女の父フリードリヒの後妻となった。持参金は姉タデアの時と同じ10万グルデンに揃えられた。公爵夫妻は5人の子女をもうけ、うち3人が成育した。