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墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、[[本丸]]には今川氏の城代が置かれていたため入れず、[[二の丸]]に入った。
 
天文24年([[1555年]])3月、駿府の今川氏の下で[[元服]]し、今川義元から[[偏諱]]を賜って'''次郎三郎元信'''と名乗り、今川義元の[[姪]]で[[関口親永]]の娘・瀬名([[築山殿]])を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって'''蔵人佐元康'''と改めている。[[永禄]]元年([[1558年]])2月5日には今川氏から織田氏に通じた加茂郡[[寺部城]]主・[[鈴木重辰 (日向守)|鈴木重辰]]を攻めた、これが[[初陣]]であり城下を焼いて引き揚げ転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・伊保を攻めたこの戦功により義元は旧領のうち山中300貫文の地を返付し腰刀を贈った{{Sfn|中村|1965|p=92}}。
 
=== 清洲同盟から三河国平定 ===
[[ファイル:Mitsubaaoi.svg|thumb|徳川家の[[家紋]]"[[三つ葉葵|丸に三つ葉葵]](徳川葵)"]]
 
永禄3年([[1560年]])[[5月]]、[[桶狭間の戦い]]で先鋒を任され、[[大高城]]の[[鵜殿長照]]が城中の兵糧が足りないことを義元に訴えたため義元から兵糧の補給を命じられたしかし織田軍は大高城を包囲しており、[[兵糧]]を運び込むには包囲を突破する必要があった。そこで5月18日、[[鷲津砦]]と[[丸根砦]]の間を突破して小荷駄を城中に送り込み全軍無事に引上げた翌19日丸根の砦を攻め落とし[[朝比奈泰能]]は鷲津の砦を攻め落とした{{Sfn|中村|1965|p=96}}。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である[[大樹寺]]に入り、自害しようとしたが住職の[[登誉天室]]に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする<ref>[[平野明夫]]「戦国期徳川氏の政治的立場―織田氏との係わりを通して―」『国史学』158号、1995年</ref>。また桶狭間の戦いの直後から、元康は今川・織田両氏に対して軍事行動を行う両面作戦を行ったとする説もある<ref>[[宮本義己]]「松平元康<徳川家康>の器量と存在感」『大日光』71号、2001年</ref>
 
永禄4年(1561年)2月、元康は将軍・[[足利義輝]]に嵐鹿毛とよばれる駿馬を献上して[[室町幕府]]との直接的な関係を築くことで、独立した領主として幕府に認めて貰おうとしている<ref>宮本義己「松平元康<徳川家康>の早道馬献納 -学説とその典拠の批判を通して-」『大日光』73号、2003年</ref>。4月、元康は東三河における今川方の拠点であった[[牛久保城]]を攻撃、今川氏からの自立の意思を明確にした{{Efn|永禄10年(1567年)に今川氏真が[[鈴木重勝]]と[[近藤康用]]に所領を宛行した判物(『愛知県史』資料編11・566号)の中で氏真が「酉年四月十二日岡崎逆心之刻」における両者の戦功を評価する文言があり、氏真が酉年にあたる永禄4年(1561年)4月に岡崎城の松平元康が(今川氏視点から見て)反逆を起こしたと認識していたことが分かる。}}。
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家康の豊臣政権への臣従までの経緯は『[[家忠日記]]』に記されているが、こうした情勢の中、同年9月に秀吉は家康に対して更なる人質の差し出しを求め、徳川家中は酒井忠次・本多忠勝ら豊臣政権に対する強硬派と[[石川数正]]ら融和派に分裂し、さらに秀吉方との和睦の風聞は北条氏との関係に緊張を生じさせていたという。同年11月13日には石川数正が[[出奔]]して秀吉に帰属する事件が発生する。この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』)。
 
天正14年([[1586年]])に入ると秀吉は織田信雄を通じて家康の懐柔を試み(『[[当代記]]』)、4月23日には臣従要求を拒み続ける家康に対して秀吉は実妹・[[朝日姫]](南明院)を正室として差し出し、5月14日に家康はこれを室として迎え秀吉と家康は義兄弟となる。さらに10月18日には秀吉が生母・[[大政所]]を朝日姫の見舞いとして岡崎に送ると、24日に家康は浜松を出立し上洛している。
 
家康は10月26日に大坂に到着、[[豊臣秀長]]邸に宿泊した。その夜には秀吉本人が家康に秘かに会いにきて、改めて臣従を求めた。こうして家康は完全に秀吉に屈することとなり、10月27日、[[大坂城]]において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。この謁見の際に家康は、秀吉が着用していた[[陣羽織]]を所望し、今後秀吉が陣羽織を着て合戦の指揮を執るようなことはさせない、という意思を示し諸侯の前で忠誠を誓った(徳川実紀)。
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* [[薩摩国]]・[[大隅]]の[[島津義久]]に5万石を加増。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])[[3月]]、[[豊後国]]に[[南蛮貿易|南蛮船]](オランダ船)の[[リーフデ号]]が漂着した。家康はリーフデ号を[[大阪]]へ移し、航海長の[[ウィリアム・アダムス]](後の三浦安針)や船員の[[ヤン・ヨーステン]]は家康に厚遇され外交上の諮問にこたえるようになる特にウィリアム・アダムスは航海や水先案内の技術だけでなく数学と天文学も得意としていたことから家康にヨーロッパの科学知識や技術を伝えたり西洋船を作ったりして家康から寵愛された<ref>北島正元『徳川家康―組織者の肖像―』、中央公論社、1963年、186頁</ref>。
 
=== 関ヶ原の戦い ===
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同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は[[織田長益|織田有楽斎]]を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり<ref>本多隆成「Ⅴ.大所政治の展開-慶長十六年の画期」『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年、pp236-239。</ref>、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる{{Sfn|村川2013-2|pp=117-118}}。
 
同年、[[ヌエバ・エスパーニャ]](現在の[[メキシコ]])副王ルイス・デ・ベラスコの使者[[セバスティアン・ビスカイノ]]と会見し、スペイン国王[[フェリペ3世]]の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で家康の経教分離の外交を無視したことが家康をして禁教に踏み切らせた真因であるこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は鎖国に直結するものではない<ref name="宮本1992">宮本義己「徳川家康公の再評価」、『大日光』64号、1992年</ref>
 
慶長18年([[1613年]])、[[イギリス東インド会社]]の[[ジョン・セーリス]]と会見。イングランド国王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸に[[イギリス商館]]の開設を許可した。
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* 「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
 
{{Anchor|死因}}については、[[鯛]]をかやの油で揚げその上にすった韮をすりかけた[[天ぷら]]による[[食中毒]]説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]の夕食で{{Efn|[[京都|京]]で評判になっている目新しい料理として[[茶屋四郎次郎]]清次が紹介し、[[田中城]](現・[[静岡県]][[藤枝市]])にて供したもので、家康はいたく気に入り、日ごろの節制を忘れて大喰らいに到り、大鯛2枚・[[アマダイ|甘鯛]]3枚を平らげたと伝えられる。なお、「天ぷら」とは呼ばれているが、衣は無く、実際は[[から揚げ]]に近い。''cf.'' [[天ぷら#逸話]]。}}、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。替わって主流となっているのは[[胃癌]]説である。『徳川実紀』が家康の病状を「見る間に痩せていき、[[吐血]]と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認できるくらいだった」と書き留めていること、および、係る症状が胃癌患者に多く見受けられるものである事実が、その論拠となっている<ref>[[富士川遊]]「徳川家康の身體に就いて」、『史学雑誌』18編12号、1907年</ref><ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』、[[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199</ref>。
 
後代、江戸城内にては天ぷらを料理することが禁止されており、これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた[[禁忌]]であるという説明がなされることもあるが、実際には、[[大奥]]の[[侍女]]の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものである{{Efn|江戸城内に限った話ではなく、温度計による油温管理ができなかった時代、食用油は容易に引火し、かつ消火は困難であった。それゆえにそれ以外の建物内においても、天ぷらは火災予防のため忌避され、専ら屋台で調理人により料理される時代が太平洋戦争まで続いた<ref>[http://www7b.biglobe.ne.jp/%257erakusyotei/sawakai38.html 亭主の寸話38 『てんぷら店の移り変わり』])</ref>。}}。
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; 多趣味
: 鷹狩りと薬づくりが家康の趣味として特に有名であるが、非常に多くの趣味があった。
:* 鷹狩は、[[武蔵国府跡|府中御殿]]に滞在しながら{{Efn|家康は、将軍即位後も鷹狩や鮎漁の際に、頻繁に府中御殿に滞在<ref>[http://f-env.sakura.ne.jp/pdf/2010aki.pdf 秀吉を迎えた家康府中御殿]</ref>。}} [[お鷹の道・真姿の池湧水群|お鷹の道]]で行われたとの記録が残っている。家康の鷹狩に対する見方は独自で鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに身体を鍛える一法とみなし内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)<ref name="宮本1995">宮本義己「徳川家康公と医学」、『大日光』66号、1995年</ref>。
:* [[薬]]づくりは、[[八味地黄丸]]など生薬調合を行いこの薬が俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ八段目の引き出しに保管していた<ref name="宮本1995"/>「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
:* [[猿楽]](現在の名称は[[能]])は、若いころから[[世阿弥]]の家系に連なる[[観世元雅|観世十郎太夫]]に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に[[幸若舞]]を好んだという。
:* [[囲碁]]も[[本因坊算砂]]に師事、特に[[浅野長政]]とはよい碁敵だった。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は[[囲碁殿堂]]に顕彰されている。
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: 家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
: その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。決して過食することのないようにも留意していたといわれる。酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
: [[生薬]]にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である[[本草綱目]]や[[和剤局方]]を読破し、慶長12年([[1607年]])から、本格的な本草研究に踏みだした<ref name="宮本2016">宮本義己「徳川家康と本草学」、笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年</ref>。調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている[[八味地黄丸]]を特に好んで処方して日常服用していたという。[[松前慶広]]から精力剤になる[[海狗腎]](オットセイ)を慶長15年([[1610年]])と慶長17年([[1612年]])の2回にわたり献上されており家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)<ref name="宮本1995"/><ref name="宮本2016"/>。欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に[[石鹸]]を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の[[本地仏]]が[[薬師如来]]となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
: 致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていたが、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる<ref name="宮本1995"/>。家康の侍医の一人、呂一官が創業した[[柳屋本店 (化学)|柳屋本店]]は今も現存する。
; 寡黙な苦労人
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== 参考論文 ==
*[[富士川遊]]「徳川家康の身體に就いて」(『史学雑誌』18編12号、1907、1907年)
*[[宮本義己]]「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992、1992年)
*宮本義己「徳川家康公と医学」(『大日光』66号、1995、1995年)
*宮本義己「「松平元康<徳川家康>の器量と存在感」(『大日光』71号、2001、2001年)
*宮本義己「松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して―」(『大日光』73号、2003、2003年)
*宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016、2016年)
*[[平野明夫]]「戦国期徳川氏の政治的立場―織田氏との係わりを通して―」(『国史学』158号、1995、1995年)
*[[滝川恒昭]]「里見氏にあてた家康の起請文」(『季刊ぐんしょ』58号、2002、2002年)後に滝川恒昭編『房総里見氏』〈中世関東武士の研究13〉戎光祥出版、2014年10月、ISBN 978-4-86403-138-7に収む。
*[[柴裕之]]「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」(『地方史研究』315号、2005、2005年)後に改題して「今川・松平両氏の戦争と室町幕府将軍」(『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年)に収む。
*[[赤坂恒明]]「元亀二年の『堂上次第』について ─特に左京大夫家康(三川 徳川)に関する記載を中心に ─」(『十六世紀史論叢』創刊号 2013年3月 58〜78頁) [http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/h/buryak1571.html]
* {{Cite journal |和書 |author = [[村川浩平]] |title = [http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33306/rsg080-04-murakawa.pdf#search='%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E3%83%BB%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E6%9C%9F%E3%80%81%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%8F%99%E4%BB%BB%E3%81%A8%E8%B1%8A%E8%87%A3%E5%A7%93%E4%B8%8B%E8%B3%9C%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BE%8B' 天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例] |year = 2013
|publisher =