「コンスタンチン・オリゴヴィチ」の版間の差分

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==生涯==
V.タティシチェフ[[:ru:Татищев, Василий Никитич|(ru)]]は、1210年 - 1215年と、[[フセヴォロド[[:ru:Всеволод・スヴャトスラヴィチ Святославич Чермный|(ruキエフ大公)|フセヴォロド]]が[[キエフ大公]]位にあった1206年 - 1207年の間に、[[チェルニゴフ公]]であったリューリクという人物は、スモレンスク・ロスチスラフ家{{refnest|group="注"|「スモレンスク・ロスチスラフ家」は便宜的な名称である。[[スモレンスク公]][[ロスチスラフ1世|ロスチスラフ]]の子孫であり、12世紀前半から15世紀初頭(滅亡)までの[[スモレンスク公国]]を統治した。詳しくは[[:ru:Рюриковичи#Ростиславичи Смоленские и князья Ярославские]]を参照されたし。}}出身の[[リューリク・ロスチスラヴィチ (キエフ大公)|リューリク]]ではなく、本項のコンスタンチン(コンスタンチンは[[聖名]]であり、出生名はリューリク)であると論じている。R.ゾトフ<ref>[http://www.runivers.ru/lib/book3123/9802/ О черниговских князьях по Любецкому синодику и о Черниговском княжестве в татарское время стр] 57—63.</ref>、A.ピャトノフ<ref>[http://www.drevnyaya.ru/vyp/stat/s1_7_112.pdf Борьба за киевский стол в 1210-е. Спорные вопросы хронологии]</ref>もまたこの説を部分的に支持している。しかしこの説に従うならば、コンスタンチンは[[グレプ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)|グレプ]]と[[ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ (チェルニゴフ公)|ムスチスラフ]]の2人のおじの生存中にチェルニゴフ公位にあったことになり、当時の継承法[[:ru:Лествичное право|(ru)]]に反することになる。
 
また、A.ゴルスキー[[:ru:Горский, Антон Анатольевич|(ru)]]の説によれば<ref>Горский А. А. [http://www.slideshare.net/Kolovrat7520/xiiixiv Русские земли в XIII—XIV веках.]</ref>、コンスタンチンは[[カルカ河畔の戦い]]でおじのムスチスラフ(上記のムスチスラフ)が死亡した1223年から、1226年にかけてチェルニゴフ公位にあったとされる。さらに、[[ミハイル2世 (キエフ大公)|ミハイル]]と[[オレグ (クルスク公)|オレグ]](両名ともに、この期間のチェルニゴフ公として挙げられる人物である。)がチェルニゴフ公国の支配権をかけて争ったのは、ムスチスラフの死の直後のことではなく、1226年のことであると論じている。