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[[File:Independiente1967.jpg|thumb|right|200px|ナシオナル1967で優勝したチーム]]
 
アルゼンチンサッカーリーグは1931年にプロ化された。プロ化後初の試合は[[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ]]戦 (1-1) であり、翌節の[[CAウラカン]]戦 (3-1) で初勝利を挙げた。プロ化後初のアベジャネーダ・ダービーはシーズン終盤に行われたが、ラシン・クラブに4-7で敗れた。1937年にクラブ史上最高の選手のひとりとなる[[ビセンテ・デ・ラ・マタ]]が加入すると、彼の活躍によって1938年のリーグ戦で初優勝し、1939年に2連覇を果たした。1930年代から1940年代前半に在籍したパラグアイ人の[[アルセニオ・エリコ]]は公式戦通算295得点を挙げ、アルゼンチンリーグの通算最多得点者として現在も名前が残っている。エリコは1シーズンに平均40得点を挙げ、1937年、1938年、1939年に得点王に輝いた。インデペンディエンテはアルゼンチンとウルグアイのリーグ王者が戦う[[コパ・リカルド・アルダオ]]にも出場し、1938年は[[CAペニャロール]]を破り、1939年には[[ナシオナル・モンテビデオ]]を破って優勝している。この大会の優勝クラブはカンペオン・リオプラテンセ(ラ・プラタ川王者)と呼ばれた。
 
=== 1940年代と1950年代 ===
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1970年代最初のシーズン(メトロポリターノ1970)でもリーグ優勝を飾った。1972年には3度目のコパ・リベルタドーレス優勝を果たし、1975年まで4連覇を成し遂げたほか、1976年にもベスト4となった。1972年大会決勝では[[ウニベルシタリオ・デポルテス]](ペルー)を、1973年大会決勝では[[CSDコロコロ]](チリ)を、1974年大会決勝では[[サンパウロFC]](ブラジル)を、1975年大会決勝では[[ウニオン・エスパニョーラ]](チリ)を破っている。1972年と1974年のインターコンチネンタルカップには敗れたが、1973年大会では[[ユヴェントスFC]](イタリア)を破り、4度目の出場で初優勝を飾った。なお、1975年大会は試合そのものが中止となっている。1970年代のインデペンディエンテは黄金期を迎え、12個の主要タイトルを獲得している。国内リーグで4個(メトロポリターノ1970、メトロポリターノ1971、ナシオナル1977、ナシオナル1978)、コパ・リベルタドーレスで4個(1972、1973、1974、1975)、インターコンチネンタルカップで1個(1973)、[[コパ・インテルアメリカーナ]]で3個(1973、1974、1975)である。コパ・リベルタドーレスでの4連覇はクラブ最大の成功に数えられる。この時代のチームは[[リカルド・ボチーニ]]と[[ダニエル・ベルトーニ]]のコンビで有名となった。
 
1978年1月25日に行われたナシオナル1977最終節・[[{{仮リンク|CAタジェレス・デ・コルドバ]] (タジェレス)|label=CAタジェレス|es|Club Atlético Talleres (Córdoba)}}戦は、クラブの歴史で最も記憶に残る試合として知られている。ホームでのファーストレグに1-1で引き分け、コルドバでの最終戦は1-1の同点であったが、残り15分の段階でタジェレスが疑惑の得点を挙げた。この結果、インデペンディエンテの選手は抗議を行ったが、主審はインデペンディエンテの3人の選手にレッドカードを提示して退場処分とした。わずか8人での戦いを余儀なくされ、残り時間も少ない中、インデペンディエンテはベルトーニのアシストからボチーニが信じられない得点を挙げて同点に追いついた。2試合合計3-3となったが、アウェーゴールルールによってインデペンディエンテのリーグ優勝が決定した。メトロポリターノ1983でも優勝し、1984年には7度目のコパ・リベルタドーレス優勝を遂げて大会最多優勝クラブとなった。同年には日本の東京で行われたインターコンチネンタルカップに出場し、[[イアン・ラッシュ]]を擁する[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]王者の[[リヴァプールFC]](イングランド)と対戦した。1-0で激闘を制し、同大会2度目の優勝を果たした。クラブが1980年代に得た最後の重要なタイトルは1988-89シーズンのリーグ優勝である。38試合で58得点32失点、22勝11分5敗を記録した。[[ホルヘ・ソラーリ]]監督に率いられたチームには依然として策士ボチーニがおり、[[カルロス・アルファロ・モレノ]]がリーグ得点王となった。通算740試合に出場して107得点を記録したボチーニは、1991年に現役引退を表明した。ボチーニは1972年にデビューしてから20年間をインデペンディエンテのみに捧げた[[リスト・オブ・ワン・クラブ・マン|ワン・クラブ・マン]]であり、4度のリーグ優勝や8度の国際大会優勝の立役者であったが、彼の引退によって組織の崩壊からクラブの凋落が始まった<ref name="暗黒時代からの帰還">{{cite news |url=http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1011/other/text/201012130006-spnavi.html |title=インデペンディエンテ、暗黒の時代からの帰還 |work=スポーツナビ |date=2010-12-16 |accessdate=2012-08-08}}</ref>。
 
=== 1990年代以降 ===
クラブは[[アペルトゥーラとクラウスーラ|クラウスーラ]]1994で優勝し、1994年と1995年の[[スーペルコパ・スダメリカーナ]]を、また1995年の[[レコパ・スダメリカーナ]]を制した。このレコパ優勝によって国際タイトルは15個まで増えた。1990年代後半以降の7年間は無冠に終わったが、[[アペルトゥーラとクラウスーラ|アペルトゥーラ]]2002でリーグ王者に返り咲いた。[[アメリコ・ガジェゴ]]監督が率い、[[フェデリコ・インスア]]、[[ダニエル・モンテネグロ]]、[[アンドレス・シルベーラ]]、その他のアルゼンチン人選手による攻撃的なプレースタイルで知られた。しかしその後は厳しい期間が続き、1990年以降増加し続ける深刻な借金に悩まされた。当初は5000万ドル以上の借金を抱えていると言われていたが、2006年2月には借金が約2600万ドルであることが裁判官によって証明された。同年にはエースの[[セルヒオ・アグエロ]]が[[アトレティコ・マドリード]]に移籍したが、この際に移籍金2300万ユーロが支払われ、借金返済に望みが生まれた。
 
2006-07シーズンは熱狂とともに始まった。かつてのスター選手である[[ホルヘ・ブルチャガ]]監督がモンテネグロ、[[ヘルマン・デニス]]、[[オスカル・ウスタリ]]などを率い、タイトル争いが期待された。アペルトゥーラ2006ではホームでの最終節で[[CAヒムナシア・イ・エスグリマ・デ・フフイ]]に敗れるなど不安定なシーズンだったが、アペルトゥーラ2005と同じ4位でシーズンを終えた。2006年には、1928年以来継続してホームスタジアムであったエスタディオ・デ・インデペンディエンテ(通称ラ・ドブレ・ビセラ・デ・セメント)が閉鎖されて新スタジアムの建設が開始されたが、この期間は各地のスタジアムを転々としてホームゲームを開催し、常に残留争いに巻き込まれた<ref name="暗黒時代からの帰還"/>。クラウスーラ2007は最悪のシーズンとなった。開幕からの10試合で勝ち点8しか挙げられず、ホームで格下[[CDゴドイ・クルス・アントニオ・トンバ|CDゴドイ・クルス]]に敗れてブルチャガ監督が辞任した。[[ミゲル・アンヘル・サントロ]]が暫定監督に就任し、サントーロ監督指揮下では無敗(4勝5分)でシーズンを終えたが、最終的には11位となり、勝ち点2差でコパ・リベルタドーレスやコパ・スダメリカーナの出場権獲得を逃した。2008年には[[クラウディオ・ボルギ]]監督が就任し、アペルトゥーラ2008では好スタートを切ったにもかかわらず、3連敗を喫してボルギ監督が辞任した。再びサントーロが暫定監督に就任し、悪夢の2007年から立ち直るために多くの選手が売却された。[[フェデリコ・イグアイン]]、[[レオネル・リオス]]、[[エマヌエル・セントゥリオン]]、[[レアンドロ・デペトリス]]、[[レオネル・ヌニェス]]、[[ダリオ・ガンディン]]などの著名選手が売却されたが、成績は期待されたほどではなかった。コパ・スダメリカーナでは1回戦で敗退し、アペルトゥーラ2008では国際カップ戦の出場権獲得に失敗した。最終的に18位となり、インデペンディエンテの下にも名門クラブ([[CAロサリオ・セントラル]]が19位、[[CAリーベル・プレート]]が20位)が位置した。クラウスーラ2009開幕前には[[エドゥアルド・トゥッシオ]]やパラグアイ人の[[ディエゴ・ガビラン]]と契約した。クラウスーラ2009のシーズン序盤にサントーロ暫定監督が辞任すると、アペルトゥーラ2002を制した際に監督を務めたガジェゴ監督が復帰したが、再び16位に低迷してサポーターの怒りを買った。アペルトゥーラ2009を前にしてシルベーラ、[[カルロス・マテウ]]、[[イグナシオ・ピアッティ]]らを獲得し、その他にも多数の一流選手を獲得したため、再び希望が生まれた。ガジェゴ監督はチームのスリム化に取り組み、スター選手のモンテネグロを含む17人もの選手を放出した。この選手の入れ替えがうまくいき、同年10月の[[エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカ]]完成による上昇気流などもあって、アペルトゥーラ2009では勝ち点34を獲得して4位となった。ガジェゴ監督は新たに何人かの重要な契約を交わし、クラウスーラ2010ではシーズン終盤まで首位に立っていた。[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]、エストゥディアンテス、ゴドイ・クルスに交わされたが、2シーズン続けて4位となった。同年のコパ・スダメリカーナの出場権を獲得したが、クラブ首脳陣はガジェゴ監督に対して新契約の提示を行わなかった。
 
アペルトゥーラ2010では不振にあえいだ。フリオ・コンパラーダ会長は選手獲得に資金を投じないことを決定し、エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカの工事に資金を注いだ。その上、ピアッティ、ガンディン、[[ワルテル・アセベド]]、[[ルシアーノ・ベジャ]]などの主力選手がクラブを離れた。[[セサル・ルイス・メノッティ]]GMと[[ダニエル・ガルネーロ]]監督が解任され、[[アントニオ・モハメド]]監督が登用された。モハメド監督はライバルのラシンを1-0で破り、クラブに新たな見地を与えた。国内リーグでは最下位の20位に終わったが、コパ・スダメリカーナでは各ステージを勝ち進み、決勝で[[ゴイアスEC]](ブラジル)をPK戦の末に破って初優勝した。コンパラーダ会長が退任してハビエル・カンテーロ会長が就任し、カンテーロ会長は、状況に応じて選手の放出を行わなければクラブの命取りになるという、深刻な財政問題を明らかにした。2011年のレコパ・スダメリカーナでは[[SCインテルナシオナル]](ブラジル)に敗れ、同年の[[スルガ銀行チャンピオンシップ]]では[[Jリーグカップ]](ナビスコカップ)王者の[[ジュビロ磐田]]に敗れた。アントニオ・モハメド監督が去った後はリーベルのレジェンドである[[ラモン・ディアス]]監督が就任し、コパ・スダメリカーナ2011ではラウンド16で[[LDUキト]]と対戦し、結果的に準優勝するクラブ相手に2試合合計1-2で敗れた。
 
2012-13シーズンには前期18位と下位に沈み、加えて2009-10シーズンの"貯金"がなくなったことも響いて前期終了時点で降格圏に転落した。後期こそ12位と多少順位を上げたものの降格圏を脱出するまでには至らず、''' クラブ史上初の降格 '''となってしまった。
 
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