「アルトヴィン県」の版間の差分

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最終的に、[[オスマン帝国]]の[[メフメト2世|メフメト二世]]がギリシャ人国家の[[トレビゾンド帝国]]を破り黒海海岸の支配権を得、内陸までも支配し、後の[[セリム1世|セリム一世]]の遠征でこの一体の地域と城を占拠した。1627年にはオスマン帝国の占領かで安定し、[[ラジスタン県]]となった。
 
250年前からの露土間の戦争がはじまり、[[露土戦争_(1828年-1829年)|第四次露土戦争]]によってこの地域はロシアに割譲されたが、[[クリミア戦争|第五次露土戦争]]でトルコ側が取り戻し、[[露土戦争_(1877年-1878年)|第六次露土戦争]]に再度ロシアに占領された。
 
この後、[[ブレスト=リトフスク条約]]、[[モスクワ条約 (1921年)|モスクワ条約]]、[[カルス条約]]によってトルコ領に確定した。これらの19世紀末期の露土間における一連の露土戦争はアルトヴィンの民族に苦痛を与え、多くの民族が戦乱を避け、あるいはロシアの支配を逃れるためと言った理由からこの地を去り、西方へと移住していった。