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* [[中日ドラゴンズ]] (2016)
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'''大場 翔太'''(おおば しょうた、[[1985年]][[6月27日]] - )は、[[東京都]][[足立区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。愛称は「'''ばっさん'''」。
== 経歴 ==
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[[永井怜]]が卒業し最上級生となった{{by|2007年}}、春はリーグタイ記録の9勝・リーグ新記録の115奪三振。秋にも8勝を挙げ同大学初の春秋連覇に貢献し、二季連続でMVP・最優秀投手・ベストナインの三冠に輝いた。同年行われた[[第56回全日本大学野球選手権大会]]のベスト8、そして[[第38回明治神宮野球大会]]では2完封を含む三連続完投勝利で初優勝にそれぞれ貢献。すべて完投で優勝したことから「平成の鉄腕」の異名がついた。同じく2007年に行われた[[第36回日米大学野球選手権大会日本代表|第36回日米大学野球選手権大会]]の初の敵地優勝、[[プレオリンピック|プレ五輪]]の優勝にも[[北京プレオリンピック野球日本代表|日本代表]]の一員として貢献した。大学通算62試合登板33勝11敗、防御率2.13。通算410奪三振と春から秋にかけての14連勝もリーグ新記録。
[[2007年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2007年のNPB大学・社会人ドラフト会議]]
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{{by|2008年}}、3月23日の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦でパ・リーグ史上初のプロ初登板で無四球完封勝利を記録。[[4月5日]]の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦では7者連続三振を含む球団新記録の16奪三振で2度目の無四球完封勝利を記録した。しかし徐々に成績を落とし、シーズン中盤には二軍へ落ち、3勝に終わった。13試合で14被本塁打といわゆる「一発病」に苦しみ、クイックや牽制などの技術面でも課題を残した。当時の二軍監督[[石渡茂]]は「彼は気持ちを表に出すタイプなので、序盤以降は精神的な部分に問題があった」と語っている<ref>月刊ホークス 2008年11月号 58頁。</ref>。
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{{by|2013年}}は一軍の11試合に先発したが、打ちこまれる場面が多く、防御率が前年より大きく悪化。結果を残すことができなかった。
{{by|2014年}}以降は選手層が厚くなったことと、[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|二軍]]で目立った成績を残すことができなかったことから登板機会が激減。
=== 中日時代 ===
{{by|2016年}}には、ウエスタン・リーグ公式戦9試合で0勝2敗、防御率5.73を記録したが、2年続けて一軍公式戦に登板できなかった。[[10月1日
== 選手としての特徴 ==
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[[大引啓次]]にはオリックス・日本ハム時代に3回頭部、および上半身への死球を与えている。これは史上初の記録であり、2013年の際は激高した大引がマウンドに詰め寄って止めようとした[[山崎勝己]]と揉み合いになるという場面があった<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130705/fig13070505020001-n1.html 日本ハム・大引、3度目死球に激高「ふざけてる」][[産経スポーツ]]、2013年7月5日閲覧。</ref>。
中日からの戦力外通告を機にプロ野球を引退した直後から、周囲の勧めなどを受けて、[[競輪選手]]への転身を模索。大場自身は、「バンクでの勝負が直接評価に結びつくところに(競輪の)魅力を感じた。自分の脚力や適性が競輪への挑戦にふさわしいことを見極められたら、2017年中に(競輪選手資格検定への合格に必要な)[[日本競輪学校]]への入学テストを受けてみたい」と述べている<ref>{{Cite web |date=2017-1-9|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/01/09/kiji/20170109s00001173013000c.html|title=元ソフトバンクの大場が競輪挑戦へ 07年ドラフト6球団競合|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2017-1-9}}</ref>。
== 詳細情報 ==
=== 年度別投手成績 ===
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