「梨本宮守正王」の版間の差分

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同じ皇族の元帥でも、統帥部長を長く務め軍部の動向にも大きく影響を及ぼした[[閑院宮載仁親王]]や[[伏見宮博恭王]]に比べれば、ほとんど軍務や時勢には関与しておらず、「誰も覚えていなかったような過去の人」([[秦郁彦]])、「間違いで引っ張ったとしか思えない」([[半藤一利]])と評された<ref>引用は、「歴代陸軍大将全覧 大正篇」P252より、[[中公新書ラクレ]]、2009年</ref>。[[浅見雅男]]は、つまるところは戦勝国による皇室への恫喝だろうと推測している<ref>浅見雅男 『皇族誕生』 [[角川文庫]] ISBN 978-4043944897、209p</ref>。
 
同じくA級戦犯に指定されて出頭せず後に自殺した[[近衛文麿]]は守正王が出頭した新聞記事を見て「宮様も宮様だ。なぜ陛下のために、日本のために何故自決して下さらなかったのか」と無念そうに嘆いたという<ref>富田健治 『敗戦日本の内側-近衛公の思い出』P278より ([[古今書院]]、1962年)</ref>。
 
[[1946年]]5月23日、貴族院議員を辞職<ref>『官報』第5822号、昭和21年6月13日。</ref>。連合国軍占領統治下の[[1947年]]10月に皇籍離脱。同月[[公職追放]]<ref>『朝日新聞』1947年10月17日二面。</ref>。1951年(昭和26年)[[元日]]に、自邸で逝去。享年78。没後の[[1952年]]3月に公職追放解除<ref>『朝日新聞』1952年3月19日夕刊一面。</ref>。
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== 没後 ==
[[梨本伊都子|伊都子妃]]は、守正王亡き後も「最後の貴婦人」として振舞い、規子女王の二男[[広橋儀光]]、次いで[[多嘉王|久邇宮多嘉王]]の三男龍田(梨本)徳彦夫妻を[[養子]]に迎えた([[梨本徳彦]]夫妻養子に先立ち、儀光とは離縁)。[[1976年]]([[昭和]]51年)[[8月19日]]に94歳で逝去した<ref>最晩年に、回想記『三代の天皇と私』([[講談社]])を公刊した。</ref>。なお伊都子妃は、[[雍仁親王妃勢津子|秩父宮妃勢津子]]の伯母である(勢津子妃の母[[松平信子]]の姉)。
 
== 血縁 ==