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'''アリー・アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニー'''([[1934年]][[8月25日]] - [[2017年]][[1月8日]]<ref name="nikkei20170109" />)は、[[イラン]]の政治家。[[イランの大統領|大統領]](第4代)などを歴任。日本のマスコミなどでは長音記号を排し'''ハシェミ・ラフサンジャニ'''と表記されることが多い。
 
== 王政時代経歴 ==
=== 王政時代 ===
イラン南東部の[[ケルマーン州]]バフラマーン出身<ref>{{Cite news
イラン南東部の[[ケルマーン州]]バフラマーン出身<ref>{{Cite web|url=http://www2.jiia.or.jp/pdf/resarch/h21_iran/11_yougo.pdf|title=用語解説|publisher=日本国際問題研究所|author=佐藤秀信|accessdate=2012-11-08|format=PDF}}</ref>。父のミールザー・アリーは、[[ウラマー]]であり、イランでも有数の農業主でもあった。
|author=佐藤秀信
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|publisher=日本国際問題研究所
|accessdate=2012-11-08
}}</ref>。父のミールザー・アリーは、[[ウラマー]]であり、イランでも有数の農業主でもあった。
 
1948年、生家を離れ、[[シーア派]]の聖地[[ゴム (イラン)|ゴム市]]に赴き、[[ルーホッラー・ホメイニー]]に師事した。
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この時期、19世紀に西洋的近代化を唱えた[[ガージャール朝]]の政治家[[アミーレ・キャビール]]の思想に共鳴し、彼の伝記を書いている。また、革命までの数年間、欧米や日本を訪問した。[[広島市]]の[[平和記念資料館]]のノートにラフサンジャーニーと思われる記名がある。旅行中、[[ヤーセル・アラファート]]とも会見したことが当局に明らかになり、再び投獄された。
=== イラン・イスラム革命 ===
 
== イラン・イスラム革命 ==
1979年の[[イラン革命|イラン・イスラム革命]]後、ラフサンジャーニーは内務相に任命された。この時期、イスラム革命指導者に対するテロ行為が頻繁に起きたが、彼は空手で暴漢を撃退したという噂が広まり、人気の上昇につながった。一連のテロ事件により当時の大統領[[アリー・ハーメネイー]]が負傷し、ラフサンジャーニーは、ハーメネイーのテヘラン金曜礼拝導師の座を占めることとなった。テヘラン金曜礼拝での説教は大統領職にあるものがウラマーである場合、大統領が行うものであり、政府公式声明の意味を持った。このため[[テヘラン大学]]で講義され、新聞紙に必ず掲載され、テレビおよびラジオで放送される。特にこの職務によりラフサンジャーニーは、ホメイニーに次ぐ立場を獲得することができた。
 
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1988年5月に行われた第3期議会選挙において、ラフサンジャーニーは、議会に支持者を大量に送り込み、立場を強化した。弟のマフムードは外務省近東部長となり、モハンマドは代議員に当選、テレビ・ラジオ放送局長になった。また、従兄弟のホセイン・ハーシェミーは、乾燥果物生産者・輸出業者協会を率いた。さらにもう1人の親戚は、代議員となり、内務省でポストを得た。
=== イラン・イラク戦争 ===
 
== イラン・イラク戦争 ==
[[イラン侵攻 (イラン・イラク戦争)|イラクとの開戦]]時、ラフサンジャーニーは、国防最高会議におけるホメイニーの私的代理人であり、のちに軍最高司令官となった。
 
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1988年7月18日、ホメイニーは、イラクとの停戦を受け入れたが、これにはラフサンジャーニーの説得が大きく作用したと言われる。彼は、正規軍への平衡力として[[イスラム革命防衛隊]]を組織したが、同時に彼らを押さえ込むこともできた。
=== 大統領 ===
 
== 大統領 ==
1989年7月28日、ラフサンジャーニーは大統領に選出された。投票総数の95%を集め、イランで最も影響力のある政治家であることを証明した。周囲からは穏健派の現実主義者と考えられており、就任後、この路線を実践に移した。
 
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1993年、大統領に再選された。1997年8月、連続3期目を禁じる憲法上の規定に従い、大統領の座を[[モハンマド・ハータミー]]に譲った。
=== 大統領退任後 ===
 
== 大統領退任後 ==
[[イラン大統領選挙 (2005年)|2005年の大統領選挙]]に出馬したが、[[マフムード・アフマディーネジャード]]に敗れた。
 
[[イラン大統領選挙 (2009年)|2009年の大統領選挙]]では、改革派の[[ミール・ホセイン・ムーサヴィー]]候補を支援したと報道された<ref>「[http://mainichi.jp/select/world/{{Cite news/20090701ddm007030076000c.html |title=イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援]」 [[|newspaper=毎日新聞]]、|date=2009年[[7月1日]]。-07-01|url=http://mainichi.jp/select/world/news/20090701ddm007030076000c.html|accessdate=2009-07-24}}{{リンク切れ|date=2017[[7124日]]閲覧。}}</ref>。[[2009年]][[6月3日]]、保守強硬派で現職の[[マフムード・アフマディーネジャード]]大統領と改革派のムーサヴィー元首相の間で行われた直接討論会において、アフマディーネジャード大統領はムーサヴィー批判の中で「彼の背後には、ラフサンジャーニーがいる」と指摘し、ラフサンジャーニーとその親族、側近らの「腐敗」を名指しして非難。「彼らは手ぶらで来て、大金持ちになった。ムーサヴィー氏が勝てば、その特権主義が継承される」と語った。ラフサンジャーニーとその親族、側近らの腐敗は国民の間でささやかれてきたという<ref>[http://mainichi.jp/select/world/europe/news/20090605k0000m030030000c.html] 毎日新聞{{リンク切れ|date=2017年1月}}</ref>
 
[[イラン大統領選挙 (2013年)|2013年の大統領選挙]]に、2013年5月11日に立候補を届け出た<ref>{{citenews|url=http://sankei.jp.msn.com/world/Cite news/130511/mds13051123540005-n1.htm|title=イラン大統領選にジャリリ氏、ラフサンジャニ元大統領らが届け出|publishernewspaper=産経新聞|date=2013年5月-05-11|accessdateurl=http://sankei.jp.msn.com/world/news/130511/mds13051123540005-n1.htm|accessdate=2013年5月-05-12}}</ref>が、[[監督者評議会]]の事前審査で失格となった。
 
[[2017年]][[1月8日]]、心臓発作のため、によりテヘラン市内の病院で死去した。82歳だった<ref name="nikkei20170109">{{Cite news|title=ラフサンジャニ・イラン元大統領が死去 保守穏健派の重鎮|newspaper=日本経済新聞|date=2017年1月9日1時53分|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLAS0040005_Y7A100C1000000/|accessdate=2017-01-09}}</ref><ref>{{Cite news|title=ラフサンジャニ元大統領死去、82歳=保守穏健派の重鎮-イラン|newspaper=時事ドットコム通信|date=2017-01-09|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=2017010900015&g=int|accessdate=2017-01-09}}</ref>。
 
== 人物 ==
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次女の[[ファーエゼ・ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]は改革派の政治家として知られる。
 
== 脚注出典 ==
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