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|番号=なし
|通称=明治憲法、帝国憲法、旧憲法など
|効力=第73条により全部改正<br>または事実上の失効
|種類=憲法
|内容=天皇の大権事項、臣民の権利義務
|関連=[[日本国憲法]]、[[旧皇室典範]]、<br>[[議院法]]、[[内閣官制]]、裁判所構成法
|リンク=
|ウィキソース=大日本帝國憲法
}}
[[ファイル:Kenpohapu-chikanobu.jpg|300px|thumb|憲法発布略図(1889<br>1889(明治22年)、[[楊洲周延]]画]]
[[ファイル:Adachi Ginkō (1889) View of the Issuance of the State Constitution in the State Chamber of the New Imperial Palace.jpg|300px|right|thumb|新皇居於テ正殿憲法発布式之図(1889<br>1889(明治22年)、[[安達吟光]]画]]
'''大日本帝国憲法'''(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、[[旧字体]]:大日本帝國憲法)は、[[1889年]]([[明治]]22年)[[2月11日]]に[[公布]]、[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された、近代[[立憲主義]]に基づく[[日本]]の[[憲法]]<ref group="注釈">大日本帝国憲法には、表題に「[[大日本帝国]]」が使用されているが、[[詔勅]]では「大日本憲法」と称しており、正式な[[国号]]と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた[[1936年]](昭和11年)まで、他に「日本国」「日本」等の名称も使用された。
</ref>。'''明治憲法'''(めいじけんぽう)、あるいは単に'''帝国憲法'''(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の[[日本国憲法]]との対比で'''旧憲法'''(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
 
短期間で停止された[[オスマン帝国憲法]]を除けばアジア初の近代憲法である。[[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]の日本国憲法施行まで半世紀以上の間<ref group="注釈">正確には56年5か月4日(20608日)</ref>、一度も改正されることはなかった。[[1947年]](昭和22年)[[5月2日]]まで存続し、[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]に[[大日本帝国憲法73条|第73条]]の憲法改正手続による公布を経て[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]に[[日本国憲法]]が施行された。
 
== 沿革 ==
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=== 明治維新による国制の変化 ===
日本では、明治初年に始まる[[明治維新]]により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。[[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[グレゴリオ暦]][[1867年]][[11月9日]])、[[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]]の[[徳川慶喜]]が[[明治天皇]]に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した([[大政奉還]])。同年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1868年]][[1月3日]])に[[江戸幕府]]は廃止され、新政府(明治政府)が設立された([[王政復古 (日本)|王政復古]])。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な[[官僚制]]の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な[[幕藩体制]]に基づく代表的[[君主制|君主政]]から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。[[大日本帝国憲法第10条]]は官制大権が天皇に属すると規定している。
 
明治2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]([[1869年]][[7月25日]])、[[版籍奉還]]がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と[[人民]]に対する統治権をすべて[[天皇]]に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権([[三権分立]]の[[立法]]権・[[行政]]権・[[司法]]権)を行使することを意味する。さらに、[[明治]]4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])には[[廃藩置県]]が行われ、名実共に藩は消滅し、[[国家権力]][[中央政府]]に集中された。[[大日本帝国憲法第1条]]および[[大日本帝国憲法第4条|同第4条]]は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。
 
版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。[[大日本帝国憲法第27条]]は臣民の[[財産権]]を保障し、[[大日本帝国憲法第22条|同第22条]]は臣民の居住移転の自由を保障している。
 
新政府は版籍奉還と同時に、[[堂上家|堂上公家]]と[[大名|諸侯]]を[[華族]]といった[[爵位]]が授与された特権階級)に、武士を[[士族]]に、足軽などを[[卒族]]に、その他の人民を「大日本帝国[[臣民]](日本国民)」として[[平民]]に改組した。明治4年(1871年)には士族の公務を解いて[[農業]][[工業]][[商業]]の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。明治5年([[1872年]])には[[徴兵制度]]を採用して[[国民皆兵]]となったため、士族による[[軍事]][[職業]]の独占は破られた。このようにして武士の階級的な特権は廃止された。[[大日本帝国憲法第19条]]は人民の等しい公務就任権を規定し、[[大日本帝国憲法第20条|同第20条]]は[[兵役]]の義務を規定した。[[帝国議会]]([[下院]]:「[[衆議院]]」と[[上院]]:「[[貴族院 (日本)|貴族院]]」の[[両院制]])の開設に先立ち、[[1884年]](明治17年)には[[華族令]]を定めて華族を[[公爵]][[侯爵]][[伯爵]][[子爵]][[男爵]]の5爵の[[爵位]]に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の[[貴族院 (日本)|貴族院]]列席特権を規定した。
 
=== 明治の変革 ===
「[[王政復古の大号令]]」によって設置された総裁・議定・参与の[[三職]]のうち、実務を担う[[参与]]の一員となった[[由利公正]]・[[福岡孝弟]]・[[木戸孝允]]らは、[[公議政体論|公議輿論]]の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。[[慶応]]4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが'''[[五箇条の御誓文]]'''である。
{{quotation|一、廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ<br />一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ<br />一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス<br />一、舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ<br />一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ|{{smaller|「五箇条の御誓文」}}}}
 
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明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として[[公議所]]が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には[[集議院]]に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に[[廃藩置県]]が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。
 
1874年(明治7年)、前年の[[明治六年政変]]で[[征韓論]]の争議に敗れて下野した[[副島種臣]]・[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]・[[江藤新平]]らは連署により'''[[民撰議院設立建白書]]'''を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長[[藩閥]]による政権運営に対する批判が噴出、これが[[自由民権運動]]となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で[[不平士族]]による反乱が頻発するようになり、日本の[[治安]]はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の[[佐賀の乱]]、1876年(明治9年)の[[神風連の乱]]、1877年(明治10年)の[[西南戦争]]などが挙げられる。
 
[[File:Imperial rescript (M8).jpg|thumb|right|400px|立憲政体の詔書(国立公文書館収蔵)]]
1875年(明治8年)4月14日、'''[[立憲政体の詔書]]'''(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。
{{quotation|……茲ニ[[元老院 (日本)|元老院]]ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ廣メ[[大審院]]ヲ置キ以テ審判ノ權ヲ鞏クシ又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公&#xFA17;ヲ圖リ漸次ニ國家立憲ノ政體ヲ立汝衆庶ト倶ニソノ慶ノ&#x8CF4;ラント欲ス……|{{smaller|「立憲政体の詔書」(抄)}}}}
すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に[[立憲君主制]]に移行することを宣言したのである。これは、[[大久保利通]]や[[伊藤博文]]ら政府要人と、[[木戸孝允]]や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には[[府県会規則]]を公布して各府県に民選の[[地方議会]]である'''府県会'''を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。
 
=== 私擬憲法 ===
1874年(明治7年)からの'''[[自由民権運動]]'''において、さまざまな憲法私案('''[[私擬憲法]]''')が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の[[讒謗律]]、[[新聞紙条例]]、[[1880年]](明治13年)の[[集会条例]]などさまざまな法令を定めた。[[1887年]](明治20年)の[[保安条例]]では、民権運動家は[[東京]]より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。
 
私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、[[人権]]に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆[[明治維新]]を闘った[[尊皇]]家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い[[千葉卓三郎]]らの憲法草案(いわゆる[[五日市憲法]])でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。
 
=== 制定への動き ===
[[1876年]](明治9年)[[9月6日]]、[[明治天皇]]は「元老院議長[[有栖川宮熾仁親王]]へ国憲起草を命ずるの[[勅語]]」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院はこの諮問に応えて、憲法取調局を設置した。[[1880年]](明治13年)、元老院は「'''日本国国憲按'''」を成案として提出し、また、[[大蔵卿]]・[[大隈重信]]も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなど[[ベルギー]]憲法([[1831年]])や[[プロイセン]]憲法([[1850年]])の影響を強くうけていたため、[[岩倉具視]]・[[伊藤博文]]らの反対にあい、大隈の意見ともども採択されるに至らなかった。
 
[[ファイル:Imperial rescript of the Diet establishment.jpg|thumb|right|300px|国会開設の勅諭]]
岩倉具視を中心とする勢力は[[明治十四年の政変]]によって大隈重信を罷免し、その直後に[[御前会議]]を開いて国会開設を決定した。その結果、[[1881年]](明治14年)[[10月12日]]に次のような'''[[国会開設の詔|国会開設の勅諭]]'''が発された。
 
この勅諭では、第一に、[[1890年]](明治23年)の国会([[議会]])開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。
 
=== 制定までの経緯 ===
[[1882年]](明治15年)3月、「在廷臣僚」として、[[参議]]・[[伊藤博文]]らは政府の命をうけて[[ヨーロッパ]]に渡り、[[ドイツ]]系[[立憲主義]]の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、[[ベルリン大学]]の[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]、[[ウィーン大学]]の[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の両学者から、「[[憲法]]はその国の[[歴史]][[伝統]][[文化]]に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果、[[プロイセン]] ([[ドイツ]])の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する[[井上毅]]をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌[[1883年]](明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
 
[[1885年]](明治18年)には[[太政官|太政官制]]を廃止して'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''が創設され、[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]](首相)となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・[[ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)や[[アルバート・モッセ]](Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、[[1887年]](明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島([[神奈川県]][[横須賀市]])にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、[[金沢区|相州金沢]](現:[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが[[横浜市|横浜]]へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生<ref group="注釈">民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから[[空き巣]]であったとされる。</ref>。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、[[1888年]](明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は[[1889年]](明治22年)1月に結了した。
 
[[1889年]](明治22年)[[2月11日]]、[[明治天皇]]より「'''大日本憲法発布の[[詔勅]]'''」<ref>柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。[{{NDLDC|759508/34}}]</ref>が出されるとともに'''大日本帝国憲法'''が発布され、国民に公表された。この憲法は[[天皇]]が[[黒田清隆]]首相に手渡すという[[欽定憲法]]の形で発布され、日本は[[東アジア]]で初めて[[近代憲法]]を有する[[立憲君主制|立憲君主国家]]となった。また、同時に、皇室の家法である[[皇室典範]]も定められた。また、[[議院法]]、貴族院令、衆議院議員選挙法、[[会計法]]なども同時に定められた。大日本帝国憲法は[[第1回衆議院議員総選挙]]実施後の第1回[[帝国議会]]が開会された[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された。
 
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った<ref group="注釈">制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、[[東京大学]]医学部で教鞭を執っていた[[ベルツ]]が記している(『ベルツの日記』)。</ref>。自由民権家の[[高田早苗]]は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、[[福澤諭吉]]は主宰する『[[時事新報]]』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。[[中江兆民]]もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の[[幸徳秋水]]に溜息をついている。