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[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、[[隠居]]した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。丹生島城は、宗麟が[[ポルトガル]]より輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲([[石火矢]])の射撃もあり、なんとか持ちこたえた<ref group="注釈">島津家久としては、府内城から大友義統を逐ったことで当初の目的は達したため丹生島城の力攻めは避けたという見解がある。小和田(2006)p.199</ref>。その後北上する島津軍は[[杵築城]](大分県[[杵築市]])を攻めたが[[木付鎮直]]の激しい抵抗を受け失敗、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。
 
肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]、豊後[[山野城|朽網城]](竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は[[日向国]][[塩見城]]([[宮崎県]][[日向市]]塩見)で、それぞれ越年した。
 
=== 天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵) ===