「田岡一雄」の版間の差分

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*[[1981年]](昭和56年)急性[[心不全]]により68歳で死去、[[戒名]]は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、その後の死亡により、跡目相続には長い年月と争いが起こることになった([[山口組四代目跡目問題]])。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。
*[[2013年]](平成25年)[[7月23日]]、神戸市灘区の自宅に於いて三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。 施主は長女[[田岡由伎]]、司会は[[長沢純]]
== 在日朝鮮人との抗争 ==
田岡は終戦直後の[[在日朝鮮人]]らの悪行を自伝で振り返り
 
{{Squote| その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。
敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第[[三国人]]たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。
終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。}}
 
 
 
{{Squote| 三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。 善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。
警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 }}
{{Squote| 昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
<汚ねえ・・・・>
うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。 }}
{{Squote| 昭和二一年二月、神戸[[生田区|生田]]署の[[岡政雄]]巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、[[須磨]]署[[佐藤進]]巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。 }}と書いている。ちなみに田岡の指す三国人は
{{Squote| [[在日朝鮮民主青年同盟|朝鮮人同盟]]からの果たし状だ<ref>田岡一雄自伝 電撃篇(田岡一雄 1971年初版 }P212</ref>}}
{{Squote|やはり三国人との抗争事件で[[丹波篠山]]へ朝鮮人征伐にでかけただ<ref>田岡一雄自伝 電撃篇(田岡一雄 1971年初版 P226</ref> }}と詳しく指していた。
 
==田岡を支えた主な山口組最高幹部==