「国鉄EH10形電気機関車」の版間の差分
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[[ファイル:EH1061.JPG|thumb|190px|EH10 61 製造銘板]]
'''EH10形'''は、
== 登場の背景 ==
1940 - 1950年代の東海道本線では貨物輸送需要が大きく、最大1,200[[トン|t]]の重量級貨物列車が大型[[蒸気機関車]]の牽引で運行されていた。
輸送能力の逼迫と[[石炭]]供給難を背景に
しかし、この間の[[大垣駅|大垣]] - [[関ヶ原駅|関ヶ原]]間は10[[パーミル|‰]]の[[線形 (路線)#勾配|勾配]]が延々6[[キロメートル|km]]に及び連続し、殊に機関車牽引の重量級貨物列車にとっての難所であった。1953年当時最新鋭の貨物用電気機関車であった[[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]をもってしても、この区間での1,200t列車単機牽引を想定すると出力不足により[[主電動機]]の[[オーバーヒート|過熱]]が懸念され、これでは十分な速力を得られず並行して運行される[[旅客列車]]のダイヤ設定にも支障が生じることが予測された。電化のみでは関ヶ原の隘路の解消は叶わなかったのである。
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従来の国鉄電気機関車は、鋼板部材の組み立てないし一体[[鋳鋼]]によって構成された「台車枠」を全ての基礎としていた。台車枠の両端には[[先輪]]が結合され、走行時の牽引力は台車枠の端に装備された[[連結器]]から直接[[客車]]・貨車に伝えられた。大きさは異なるが、端的に言えば蒸気機関車の台枠と同一の構造である。2台の台車は強固に連結されており、牽引力は台車同士においても直接伝えられる構造であった。他方車体は[[台枠]]を備えるものの自らの強度を保つ機能しかなく、機器類を覆って台車枠の上に載っているだけの存在だった。
本形式
日本の電気機関車史を見渡しても有数の超重量級の機関車ではあるが、台車枠を基礎とする構造と先輪の両方を廃したことから、出力の向上に比して大幅な軽量化が図られている。運転整備重量は118.4tとなり、一方の最大[[活荷重#列車荷重(鉄道)|軸重]]は14.8tとなっている(量産機は運転整備重量116.0t、最大軸重14.5t)。在来型機関車と違って先輪がないため全軸駆動となり、重量の全てを[[粘着式鉄道#粘着現象|粘着力]]確保に生かせるようになったために牽引力が向上した。とはいえ、これだけ車体重量が重くなると、[[ローカル線]]はもとより大半の地方[[幹線]]でも転用は不可能である。逆にいえば、東海道本線での運用に特化させることで割り切った機関車であったからこそ、ここまで思い切った設計
=== 電装機器 ===
主電動機は、EF15形とほぼ同等で[[絶縁 (電気)|絶縁]]強化等による熱対策を施したMT43形を8基搭載し、定格出力2,530[[ワット|kW]]を発生する。これは[[国鉄EF60形電気機関車|EF60形]]の後期形車が定格出力2,550kWを達成するまで、日本国内の電気機関車としては最大の出力であった。
制御システムは手動進段式の単位スイッチ制御方式である。従来のEF15形から大きな差はなく、平凡だが信頼性を重視した手法である。車体や台車は近代化される一方、モーターや[[主制御器|制御装置]]は在来車と同様の堅実路線を採っていた訳である。このような経緯から本
EF15形に比して出力が30%以上向上したことから、1,200t列車を牽引しての関ヶ原越えに耐える性能を得ただけでなく、平坦区間での走行性能にも余裕が生じ貨物列車のスピードアップにも貢献し
=== 車体デザイン ===
車体デザインは、民間[[インダストリアルデザイナー|工業デザイナー]]の萩原政男<ref>萩原は後年、「パノラマカー」の愛称を持つ[[名鉄7000系電車]](1961年)のデザインを手がけたことや、雑誌『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』の初代編集長となったことで知られている。</ref>が手がけた。国鉄車両としてはいち早く、スタイリングを外部のデザイナーに委託したことは特筆される。
前面形態は角張っているが、窓部分が凹んでおり中央で二分割されている。2枚窓は同時期の[[国鉄80系電車|80系電車]]、また前面窓部を凹ませる手法は[[国鉄72系電車|72系電車]]との近縁性を強く伺わせるものである。車体塗装は巷間「[[クマバチ|熊ん蜂]]」とあだ名された[[黒 (国鉄制定色)|黒色]]に[[黄1号|黄色]]の細帯<ref>鉄道貨物輸送で国鉄と関係が深かった[[日本通運]]がトラックなどに使用していた黄色を取り入れたものであるという。</ref>を入れたいささか物々しい<ref>黒と黄色は一般に警戒色としてまだら塗りに使われる色彩である。</ref>もので
なお国鉄の電気機関車として初めて、前面下部に[[排障器|スカート]]を装着している。やはり萩原の発案である。
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=== 量産機 ===
試作機の運用実績を基に細部の設計が変更され、重量配分が均等化されて運転整備重量が116t(軸重14.5t)になる。それに伴い運転席面積が拡大した。更に、分岐器や急曲線通過時を考慮して連結器を100mm前方へ突出させ全長を200[[ミリメートル|mm]]長くした。また、パンタグラフの位置は両端近くに離された。これは複数のパンタグラフの位置が近すぎる事で、[[架線]]への押し上げ力が過大となったり高速走行中に共振を起こすなどして、架線に悪影響を与えたためである。そのため、写真などではパンタグラフの位置で試作
=== 高速試験機 ===
== 試験 ==
=== 高速度試験 ===
この当時、東海道本線の輸送需要逼迫により列車の高速化が急務とされ、その一環で[[東京駅|東京]] - [[大阪駅|大阪]]間を6時間30分で結ぶ超特急列車の運転計画が検討されていた。そこで1955年12月に
この実績により、[[優等列車|優等旅客列車]]牽引用の8軸機「EH50形」製作計画も浮上した。だが、軸重の大きい機関車を高速で走行させる場合には軌道強化が必要で莫大な費用がかかる等のデメリット
=== 粘着性能試験 ===
本形式は、東海道本線においてその高出力ぶりを遺憾なく発揮していたが、この高出力を勾配線区の牽引定数増加に役立てることはできないかという観点から、
試験の結果は、牽引トン数650tで[[空転]]が発生するなど芳しいものではなかったため、EH10形の急勾配線区への投入は断念された。
== 改造 ==
運用末期、オリジナルの菱形パンタグラフであるPS15形の部品不足により、
51号機と60号機は側面中央よりにあるエアフィルターが、変形鎧戸となっていた(60号機は一時的に変更した)。また、30号機はビニロックフィルタとなっていた。
== 運用 ==
当初は東海道本線の高速貨物用として使われ、
山陽本線岡山以西では、[[瀬野八]]越えの際、その特性上、補助機関車の[[国鉄EF59形電気機関車|EF59形]]や[[国鉄EF61形電気機関車#200番台|EF61形200番台]]との出力均衡が困難であることから、入線しなかった。
== 主要諸元 ==
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