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MomijiRoBot (会話 | 投稿記録)
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用語
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[[豊臣秀吉]]に家臣として仕えていた[[建部氏]]は[[江戸時代]]に入っても引き続き尼崎郡代として700石を所領していた。時の当主・[[建部政長|政長]]は[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])[[大坂の陣]]において親族である[[池田利隆]]・[[池田忠継|忠継]]兄弟の幕下で軍功をたてた。これにより伯父の[[池田重利]]とともに川辺郡・西成郡に1万石を所領する[[大名]]に取り立てられ、尼崎藩が成立した。元和3年([[1617年]])、宗主である姫路藩主池田氏の転封により、建部政長は[[播磨国]][[林田藩]]に、池田重利は播磨国[[播磨新宮藩|鵤藩]]へ転封となった。
 
同元和3年、[[徳川氏|徳川家]][[譜代大名|譜代]]の[[戸田氏鉄]]が5万石を与えられて[[近江国]][[膳所藩]]から尼崎城に転封となった。川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡の大部分を領有した。氏鉄は[[寛永]]12年([[1635年]])に[[美濃国]][[大垣藩]]へ転封となり、青山氏が[[遠江国]][[掛川藩]]から入し、戸田氏の体制を引き継いだ。新しく開墾した4千石を加えて5万4千石としたが、藩主・幸成は分家に6千石を分け与えることを[[江戸幕府|幕府]]に願い出、これを許可されたため、4万8千石となった。青山氏時代の尼崎藩は比較的裕福だったといわれる。
 
青山氏4代[[青山幸秀|幸秀]]は[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])に[[信濃国]][[飯山藩]]へ転封となり、[[松平忠喬]]が[[遠江国]][[掛川藩]]から入し,青山氏の体制を引き継いだが、武庫郡・菟原郡・八部郡内の計26か村が幕府に召し上げられ4万石に減少した。さらに今津、西宮、御影、兵庫などの裕福な36か村が幕府に召し上げられ、引き換えに[[播磨国]]内各地の71か村が与えられ、石高は5千石の増加となったものの、実収入は激減した上に、藩領が分断されたことから領国経営が機能しなくなり、藩政は傾いていった。
 
[[慶応]]4年([[1868年]])1月、[[朝廷]]に恭順を示して領地を安堵され、同年2月、新政府の指示により'''桜井'''に改姓した。