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{{by|1999年}}は援護に恵まれず17勝9敗と勝利数は伸びなかったが、いずれもリーグトップの防御率2.48・364奪三振・271.2イニング(自己最高)・12完投。23試合で2桁奪三振を記録し、[[サンディ・コーファックス]]が{{by|1965年}}に記録したリーグ記録の21を更新、{{by|1973年}}のライアンに並ぶMLB記録となった<ref>{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=1999|title=Randy Johnson 1999 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。チームは100勝を挙げて史上最速の創設2年目で地区優勝を果たす。[[ニューヨーク・メッツ]]との[[1999年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発、9回途中まで11三振を奪ったが7失点と打ち込まれ敗戦投手。チームは1勝3敗で敗退した。オフに2度目のサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2000年}}は開幕から7連勝を記録するなど前半戦で14勝2敗・防御率1.80の好成績を挙げ、[[2000年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]では先発投手を務めた。[[9月10日]]の[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]戦で[[マイク・ローウェル]]から三振を奪い、史上12人目の[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]を達成。後半戦は5勝にとどまるが、19勝7敗・防御率2.64・347奪三振で2年連続のサイ・ヤング賞を獲得した。
 
{{by|2001年}}[[3月24日]]、スプリングトレーニングでの[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]戦の7回に、投球が偶然飛んできた[[鳩]]を直撃するハプニングが起きた。投球はノーカウントになったが、ショックを受けてその後打ち込まれた。この場面は全米に放送され、後日[[動物愛護団体]]から訴えられた。[[5月8日]]の[[シンシナティ・レッズ]]戦で史上4人目の1試合20奪三振を達成するなど、前半戦で11勝・202奪三振を記録し、2年連続で[[2001年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]の先発投手を務めた。[[7月19日]]、前日照明の故障により3回表終了後に[[サスペンデッドゲーム#メジャーリーグベースボール|サスペンデッドゲーム]]となったパドレス戦が再開され、3回からリリーフとして登板。7イニングを1安打無失点に抑え、リリーフ投手としての新記録となる16三振を奪った。21勝6敗、共にリーグトップの防御率2.49・372奪三振を記録。23試合で2桁三振を奪い<ref name="bio2001"/>、奪三振率は13.41で[[ペドロ・マルティネス]]が1999年に記録したMLB記録の13.2を更新した<ref name="bio2001">{{Cite web|url=http://mlb.com/team/player_career.jsp?player_id=116615&y=2001|title=Randy Johnson 2001 Career Highlights|language=英語 |accessdate=2008年5月10日 }}</ref>。同年チームメイトの[[カート・シリング]]が293奪三振を記録し、同一チームの2投手合計の奪三振は665で、エンゼルスのライアンと[[ビル・シンガー]]が{{by|1973年}}に記録した624を上回った<ref name="bio2001"/>。シリングと2人で計43勝を挙げて2年ぶりの地区優勝に貢献。[[セントルイス・カーディナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第2戦に先発したが、[[アルバート・プーホルス]]に本塁打を浴びるなど8回3失点で敗戦投手。ブレーブスとの[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦で3安打11奪三振完封勝利。第5戦でも勝利投手となり、初のリーグ優勝に導いた。自身にとっても初出場となったヤンキースとの[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、3安打11奪三振完封勝利。その後2試合連続でサヨナラ負けを喫するなど2勝3敗と王手をかけられるが、第6戦で勝利投手となりタイに戻す。最終第7戦ではリードを許した8回途中からリリーフとして登板し、無失点に抑える。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でワールドチャンピオンとなった。3勝を挙げてシリングと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞。3年連続でサイ・ヤング賞を獲得し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、表紙を飾った。
 
{{by|2002年}}は開幕から6連勝。いずれもリーグトップの24勝(5敗)・防御率2.32・334奪三振・260.0イニング・8完投を記録し、ナショナルリーグでは{{by|1985年}}の[[ドワイト・グッデン]]以来の[[三冠 (野球)|投手三冠]]を達成。シリングと揃って300奪三振を記録し、計47勝を挙げて2年連続の地区優勝に大きく貢献する。カージナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発したが6失点と打ち込まれて敗戦投手となり、チームは3連敗で敗退した。オフに4年連続でサイ・ヤング賞を受賞。{{by|2003年}}は開幕直後に右膝を痛め、[[4月11日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では10失点を喫するなど不調。[[4月21日]]に故障者リスト入りし、[[5月1日]]に内視鏡手術を受ける。7月下旬に復帰したが本調子とは程遠かった。[[9月19日]]のブルワーズ戦ではメジャー初本塁打を記録<ref>[http://www.baseball-reference.com/pi/gl.cgi?n1=johnsra05&t=b&year=2003 Randy Johnson 2003 Batting Gamelogs - Baseball-Reference PI] 2008年1月11日閲覧.</ref>。40歳での初本塁打はのちに[[バートロ・コローン]]に抜かれるまで最年長記録であった<ref>[http://full-count.jp/2016/05/08/post31654/ 【米国はこう見ている】メジャー最年長42歳の右腕コロンが初本塁打 会場大興奮「不可能が可能に」] Full-count 2016年5月8日</ref>。{{by|2004年}}[[5月18日]]<ref>奇しくも10年前の1994年の同じ日に、NPBで[[槙原寛己]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])が完全試合を達成している。</ref>のブレーブス戦で13三振を奪い、史上17人目の[[完全試合]]を達成。両リーグでのノーヒッターは史上5人目の快挙で、40歳8ヶ月での達成は{{by|1904年}}の[[サイ・ヤング]]の37歳1ヶ月を100年ぶりに更新する史上最年長記録となった。[[6月29日]]のパドレス戦で[[ジェフ・シリーロ]]から三振を奪い、史上4人目の通算4000奪三振を記録。[[9月15日]]の[[コロラド・ロッキーズ]]戦で[[ビニー・カスティーヤ]]から三振を奪って通算4137奪三振となり、[[スティーヴ・カールトン]]を抜いて単独3位に浮上し、左腕投手としては歴代1位となった。111敗を喫して地区最下位に低迷したチームの中で孤軍奮闘し、16勝14敗・防御率2.60・290奪三振を記録した。打線の援護に恵まれず勝利数は伸びなかったが制球力が向上し、投球内容は20勝を挙げた2001年や2002年よりも良かった<ref>{{Cite book|和書|author=友成那智、村上雅則|year=2005|title=メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005|publisher=廣済堂出版|pages=38頁|id=ISBN 978-4-331-51093-3}}</ref>。サイ・ヤング賞の投票ではクレメンスとの[[一騎討ち]]となったが、勝利数以外の全項目で上回ったにも関わらず2位に終わった。7月にヤンキース、エンゼルス、[[ボストン・レッドソックス]]など数球団と移籍交渉をしたが実現せず<ref name="major0503">「ランディ・ジョンソン[ヤンキース]/“41歳の若者”が挑む大舞台」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2005年3月号、[[ベースボール・マガジン社]]、2003年、[[雑誌コード]]08625-3、8-9項。</ref>。12月にヤンキース、[[ロサンゼルス・ドジャース]]との間でジョンソンを含めた10選手が絡む三角トレードが計画されたが、ドジャースのポール・デポデスタ[[ゼネラルマネージャー|GM]]が「メリットが少ない」として締結寸前で撤退し、破談となった<ref name="major0503"/>。{{by|2005年}}、ヤンキースはワールドチャンピオン奪回の切り札として新しいオファーを行い<ref name="sul200705">三尾圭「リベンジ! 新天地で燃える男たち」『[[スラッガー (雑誌)|スラッガー]]』2007年5月号、[[日本スポーツ企画出版社]]、2007年、雑誌15509-8、34 - 35頁</ref>、[[1月11日]]に[[ハビアー・バスケス]]、[[w:Brad Halsey|ブラッド・ハルシー]]、[[ディオナー・ナバーロ]]プラス900万ドルの金銭との交換トレードが成立し、移籍。背番号51は[[バーニー・ウィリアムス]]が着けていたため41に決定し<ref>{{Cite web|last=Feinsand|first=Mark|date=January 11, 2005|url=http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20050111&content_id=929785&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=null|title=Johnson to wear No. 41 with Yanks|work=MLB.com|language=英語 |accessdate=2010年3月4日 }}</ref>、{{by|2006年}}から2年3200万ドルで契約を延長した<ref name="major0503"/>。