「BNPパリバ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
24行目:
パリ銀行は1869年に設立された。創設者は[[:fr:Adrien Delahante (1815-1884)|Adrien Delahante]]、[[:fr:Edmond Joubert|Edmond Joubert]]、[[:fr:Eugène Goüin|Eugène Goüin]]といった富豪であった<ref name=MP />。Eugène Goüin は[[:fr:Banque Gouin|1714年来の家業]]を営む銀行家であった。1888年から1909年まで[[預金供託金庫]]監査委員会の議長を務め、1898年に[[アルフォンス・ド・ロチルド]]と''Les Banques Françaises'' という団体を代表した<ref>''Archives diplomatiques: recueil mensuel de diplomatie, d'histoire et de droit international, Numéros 65 à 68'', 1861</ref>。[[インドシナ銀行]]の役員も務めた。
パリバは[[日露戦争]]後
[[第一次世界大戦]]中、本国の戦時国債を引受けたり、フランス財務省の口座開設をスペイン・オランダ・スイス・スウェーデン各国で斡旋したり<ref group="†">フランス財務省は戦後に金融機関を通さず[[クリアストリーム]]へ口座を開設した。</ref>、国内兵器産業''Compagnie Nationale de Matières Colorantes et de Produits Chimiques'' を金融面で支えたりした。1919年から1937年まで[[:fr:Horace Finaly|Horace Finaly]] が総支配人を務めた<ref group="†">一族の[[:fr:Horace de Landau|Horace de Landau]] はバンク・ロチルド(現・[[バークレイズ]])の会長を務めた。</ref>。前段で述べた1900年前後とさほど変わらない拡大経営が続いた<ref group="†">ただしこの[[戦間期]]において、ベルリンの銀行群と[[ヴァイマル共和政]]が出典に登場していない。</ref>。1923・1932・1933年の三度、パリバが主幹事としてベルギーと[[チェコスロバキア]]の国債を発行した。オーストリア・ポーランド・[[ルーマニア]]の発行ではシ団へ参加したが、ルーマニアに限っては1928年と1931年にパリバが主幹事となった。''[[:fr:Compagnie générale du Maroc|Compagnie générale du Maroc]]'' のような植民地会社もつくって[[ブロック経済]]に貢献した。''Compagnie Française des Pétroles''(現・[[トタル]])や''Electrabel''(現・[[エンジー]])や通信の{{仮リンク|ハヴァス|fr|Havas|en|Havas}}(現・[[ヴィヴェンディ]])の金融にも関わった。<ref name=MP />
いくつかの合併と再編を経て、1982年に社会党政権の[[ピエール・モロワ]]内閣によって一旦国有化されるが、1988年に保守政権の[[ジャック・シラク]]内閣によって民営化される。1998年に社名をパリバと略した。▼
[[第二次世界大戦]]中のインフレでパリバの資本金がふくれあがった。1941年で4.5億フランだったのが、たった2年で6.75億となった。不況でリストラを断行したが、浮いた資金を工業[[特許]]の囲い込みと[[天然ガス]]・[[オイルシェール]]開発に振り向けた<ref group="†">オイルシェールは当時にして[[南満州鉄道]]も着目した燃料であった。</ref>。戦後、パリバのもつマーチャント・バンクのプロフィール情報が本国企業の国有化に貢献した。そこで1945年12月2日と1946年5月17日の法で、パリバのフルサービス継続が批准された。本国の復興に向けては原子力産業に中心的役割を担い続け、1948年に''Omnium Technique de l'Habitat'' という[[再開発]]顧問会社を設立した。パリバは1950年代までフランス工業の輸出を支援し、特にラテンアメリカ向け輸出を促進した。1958年、テヘラン銀行の株主となった。<ref name=MP />
▲
== 海外展開 ==
|