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懿公は即位してから[[鶴]]を好み、鶴を[[大夫]]の車に乗せたり鶴に禄位<ref>俸給と官位。</ref>を与えるなど、淫楽奢侈な性格であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。
 
懿公3年([[紀元前666年|前666年]])1月、衛が王子(たい)をかくまっていたため、[[周]]王は[[斉 (春秋)|斉]]に命じて衛を攻撃させた。斉の[[桓公 (斉)|桓公]]は衛の罪を責めたが、懿公が賄賂を差し出したため軍を引いた。
 
懿公9年([[紀元前660年|前660年]])12月、北の異民族の翟(てき、[[狄]])が衛を攻撃してきた。懿公は出兵しようとしたが、兵は従わず、大臣にいたっては「鶴が好きなら鶴に翟を撃たせたらよいでしょう」と言うありさまで、誰も懿公に従おうとはしなかった。そこで懿公は石祁子と寧荘子の2人に夫人を守らせ、渠孔と子伯に[[チャリオット|戦車]]を任せ、黄夷を先鋒に、孔嬰を[[殿軍]]に任命して出陣した。懿公はこの少数の衛軍を率いて翟の軍勢と熒沢の地で戦ったが、懿公が旗を立て通したため集中射撃を浴びて戦死した。こうして衛は大敗し、翟によって都の[[朝歌]]が攻め落とされた。都城などから脱出した5千人の遺民たちは[[黔牟]]の甥である姫申([[戴公 (衛)|戴公]])を衛君に立てて曹に遷都した。