「BNPパリバ」の版間の差分

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[[1872年]]1月27日、{{fr|Banque de Credit et de Depot des Pays-Bas}}(オランダ貯蓄信用銀行)と{{fr|Banque de Paris}}(パリ銀行)が合併し、{{fr|Banque de Paris et des Pays-Bas}} が誕生した。資本金は1億2500万フランで、半分が公募された。設立して一年もたたない間に、[[普仏戦争]]の賠償金支払を目的とした国債について、その1/3にあたる30億フラン分を発行するためクレディ・リヨネと協力しコンソーシアムを率いた。オランダ貯蓄信用銀行のルーツに関係して、パリバの[[ブリュッセル]]支店がコンソーシアムの中心となった。<ref name=MP />
 
オランダ貯蓄信用銀行は1863年に[[アムステルダム]]で創業した。1870年までにパリを最初としてブリュッセル・[[アントワープ]]・[[ジュネーブ]]に支店を開設していた。この銀行には[[:fr:Édouard Hentsch|Édouard Hentsch]]や[[:fr:Alphonse Pinard|Alphonse Pinard]]のような投資家と、ビショフスハイム家・[[ゴールドシュミット・ファミリー|ゴールドシュミット家]]・バンベルグ家の[[閨閥]]に関係する[[プライベート・バンキング]]をあつかう[[銀行]]が参加した。<ref name=MP>Manfred Pohl, ''Handbook on the History of European Banks'', Edward Elgar Publishing, 1994, Part. "France"</ref>
 
パリ銀行は1869年に設立された。創設者は[[:fr:Adrien Delahante (1815-1884)|Adrien Delahante]]、[[:fr:Edmond Joubert|Edmond Joubert]]、[[:fr:Eugène Goüin|Eugène Goüin]]といった富豪であった<ref name=MP />。Eugène Goüin は[[:fr:Banque Gouin|1714年来の家業]]を営む銀行家であった。1888年から1909年まで[[預金供託金庫]]監査委員会の議長を務め、1898年に[[アルフォンス・ド・ロチルド]]と''Les Banques Françaises'' という団体を代表した<ref>''Archives diplomatiques: recueil mensuel de diplomatie, d'histoire et de droit international, Numéros 65 à 68'', 1861</ref>。[[インドシナ銀行]]の役員も務めた。
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[[第一次世界大戦]]中、本国の戦時国債を引受けたり、フランス財務省の口座開設をスペイン・オランダ・スイス・スウェーデン各国で斡旋したり<ref group="†">フランス財務省は戦後に金融機関を通さず[[クリアストリーム]]へ口座を開設した。</ref>、国内兵器産業''Compagnie Nationale de Matières Colorantes et de Produits Chimiques'' を金融面で支えたりした。1919年から1937年まで[[:fr:Horace Finaly|Horace Finaly]] が総支配人を務めた<ref group="†">一族の[[:fr:Horace de Landau|Horace de Landau]] はバンク・ロチルド(現・[[バークレイズ]])の会長を務めた。</ref>。前段で述べた1900年前後とさほど変わらない拡大経営が続いた<ref group="†">ただしこの[[戦間期]]において、ベルリンの銀行群と[[ヴァイマル共和政]]が出典に登場していない。</ref>。1923・1932・1933年の三度、パリバが主幹事としてベルギーと[[チェコスロバキア]]の国債を発行した。オーストリア・ポーランド・[[ルーマニア]]の発行ではシ団へ参加したが、ルーマニアに限っては1928年と1931年にパリバが主幹事となった。''[[:fr:Compagnie générale du Maroc|Compagnie générale du Maroc]]'' のような植民地会社もつくって[[ブロック経済]]に貢献した。''Compagnie Française des Pétroles''(現・[[トタル]])や''Electrabel''(現・[[エンジー]])や通信の{{仮リンク|ハヴァス|fr|Havas|en|Havas}}(現・[[ヴィヴェンディ]])の金融にも関わった。<ref name=MP />
 
[[第二次世界大戦]]中のインフレでパリバの資本金がふくれあがった。1941年で4.5億フランだったのが、たった2年で6.75億となった。不況でリストラを断行したが、浮いた資金を工業[[特許]]の囲い込みと[[天然ガス]]・[[オイルシェール]]開発に振り向けた<ref group="†">オイルシェールは当時にして[[南満州鉄道]]も着目した燃料であった。</ref>。戦後、パリバのもつマーチャント・バンクのプロフィール情報が本国企業の国有化に貢献した。そこで1945年12月2日と1946年5月17日の法で、パリバのフルサービス継続が批准された。本国の復興に向けては[[原子力]]産業に中心的役割を担い続け{{Refnest|group="†"|たとえばコフィメール(COFIMER)<ref name=ADR />。}}、1948年に''Omnium Technique de l'Habitat'' という[[再開発]]顧問会社を設立した。パリバは1950年代までフランス工業の輸出を支援し、特にラテンアメリカ向け輸出を促進した。1958年、テヘラン銀行の株主となった。<ref name=MP />
 
1948年から1966年まで[[:fr:Jean Reyre|Jean Reyre]] が総支配人を務めた。その後1969年まで会長の座にあった。パリバは多方面の産業分野を支配した。新聞・石油・化学工業・製薬・公共事業・造船・流通・建材・アグリビジネス、各分野について具体的な企業名が出典には列記されている。1970-80年代にパリバは通信と先端技術のそれぞれに取り組む企業を立ち上げた。たとえば通信では{{仮リンク|セマ|fr|Atos#Histoire de Sema Group|en|Sema Group}}(出典によると1957年創業)と''Compagnie Luxembourgeoise de Télédiffusion''(現・[[RTLグループ]])が注目に値する。先端技術の{{仮リンク|パーテック・ベンチャーズ|en|Partech Ventures|fr|Partech Ventures}}は今でも活躍している。<ref name=MP />
1982年に社会党政権の[[ピエール・モロワ]]内閣によって一旦国有化されたが、1988年に保守政権の[[ジャック・シラク]]内閣によって民営化された。1998年に社名をパリバと略した。
 
1966-1967年のデブレ法(lois Debré)が適用されたパリバは、1968年に持株会社の''Compagnie Financière'' と以下の4部門に再編された。銀行のバンクパリバ、金融の''Omnium de participations bancaires''、工業の''Omnium de participations financières et industrielles''、そしてパリバ・インターナショナルである。<ref name=MP /><ref name=ADR>ADR BNP Paribas, [http://adr.bnpparibas.com/wp-content/uploads/2012/04/Paribas.pdf Paribas "La Compagnie financière de Paris et des Pays-Bas"], 2012</ref>
 
1960-1970年代、[[アングロアメリカン]]と関係を深め、[[バンカメ]]とアメリバをつくり、SGウォーバーグと合弁で保険業も始めた。SGウォーバーグとは合衆国へ投資銀行もつくったが、その''Warburg Paribas Becker'' は1984年にパリバの参加により[[メリルリンチ]]が買収した。1969年から[[:fr:Jacques de Fouchier|Jacques de Fouchier]] が会長となった。パリバは1964年にして[[モスクワ]]支店を出していたが、1970年代に世界中の支店網を活用した[[手形交換所|国際決済システム]]を構築した。また、[[オイルショック]]のあと石油取引で名を馳せた。[[:fr:Compagnie bancaire|コンパニ・バンケル]]と関係を深めてゆき、1978年からパリバがコンパニ・バンケルの45%を支配するようになった。そしてすぐ[[:fr:Pierre Moussa (banquier)|Pierre Moussa]] が会長となり、1981年まで務めた。翌年から[[:fr:Jean-Yves Haberer|Jean-Yves Haberer]] が引き継いだ。この1970-1980年代、[[アセットマネジメント]]部門が成長したが、伝統的なジュネーブのそれだけでなく、当時は[[ルクセンブルク]]・パリ・ニューヨーク・東京<ref group="†">1986年から[[オフショア市場]]となった。</ref>でも収益を上げるようになっていた。<ref name=MP />
 
1979年ごろから、パリバは[[ヨーロッパ通貨単位]]の導入と運営に主導的役割を担った<ref name=ADR />。
 
1982年に社会党政権の[[ピエール・モロワ]]内閣によって一旦国有化されたが、1988年に保守政権の[[ジャック・シラク]]内閣によって民営化された。1998このとき[[:fr:Michel François-Poncet|Michel François-Poncet]] が会長であった。数に社名をパリバ後、[[:fr:André Lévy-Lang|André Lévy-Lang]] との二頭制略しなった。
 
1990年代初め、クレディ・デュ・ノルの主要株主となった。クレディ・デュ・ノルは[[世界恐慌#証券パニックから世界恐慌へ|ユニオン・パリジェンヌ]]を吸収合併していた。<ref name=MP />
 
1998年に持株会社''Compagnie Financière'' がコンパニ・バンケルと合併し、パリバが正式な社名となった。
 
== 海外展開 ==
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=== United California Bank ===
米国の[[バンク・オブ・ザ・ウェスト]]( [[:en:Bank of the West|Bank of the West]])は旧BNPの子会社であった。2001年に[[三和銀行]]から [[:en:United California Bank|United California Bank]] を買収し、一気に米国40大銀行の一つとなった。UCBのバーゼル支店は、1970年の初めに[[純資産]]の20倍に及ぶ取引をしていると報道された<ref>ロバート・キンズマン 佐藤隆夫訳 『スイス銀行のすべて』 日本経済新聞社 1978年 P 16-18</ref>。これは、代取の[[ポール・アードマン]]がシカゴ穀物取引所で[[先物取引]]を行っていたものであり、2億スイスフランほどの損失を出した。1971年9月、同行は倒産した<ref>C・ビュッヘンバッハ 織田正雄/倉田勝弘 『スイス銀行の秘密』 東洋経済新報社 1979年 P 150-151</ref>。
 
BNPパリバは、[[ハワイ州]]の[[ファースト・ハワイアン・バンク]]や、イタリアの[[国立労働銀行|BNL]]にも出資している。
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[[Category:フランスの銀行]]
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