「ペトルス・ダミアニ」の版間の差分

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RJANKA (会話 | 投稿記録)
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===宗教生活===
[[1035年]]ごろ、どういうわけか、ペトルスは世俗の職業を捨てて、[[クリュニー会|クリュニー派]]の贅沢な修道院を避け、[[グッビオ]]の近くの[[フォンテ・アヴェッラーナ]]で孤独な修道生活を開始した。修行者としても、修道士としてもペトルスの熱意は群を抜いていたが、一方で過剰な修行は彼の健康に悪影響を及ぼした。健康を取り戻すと、同輩の修道士たちに講義をするよう任命され、さらに[[ポンポーザのグイド]]や近隣の修道院長たちの要請もあって、2,3年の間ペトルスは近隣の修道士たちにも講義をおこなった。[[1042年]]ごろには[[ピエトラペルトーザ]]の修道士たちのために、『聖ロムアルドの生涯』(“''the life of St. Romuald''”)を執筆した。ペトルスがフォンテ・アヴェッラーナへ帰還してからすぐに、彼は長老<ref>prior、聖ベネディクトの修道会則において、修道院内で上位の位置にある者をこう呼んだ。修道院長よりは下位であるが、この称号を授けられたからといって、とくに特別な権限が生じるわけではない。[[:en:prior]]を参照。</ref>によって修道院の会計に任命され、後継者として指名された。すなわち[[1043年]]に長老となってから死ぬまでペトルスはフォンテ・アヴェッラーナの長老であった。
 
ペトルスは修道士や聖職者の改革運動の熱心な賛同者で、フォンテ・アヴェッラーナに鞭打ちを伴う厳しい戒律を導入し、この厳しい戒律によって、フォンテ・アヴェッラーナは大変有名になった。この厳しい戒律は偉大な[[モンテ・カッシーノ修道院]]をはじめとする他の修道院でも取り入れられた。一方でペトルスの戒律に対して多くの異議が申し立てられたが、彼のねばり強い普及活動によって徐々に支持を獲得し、後に一部の行き過ぎた支持者をペトルス自身が押しとどめ、なだめなければいけないほど広まった。ペトルスはまた、夜の務めの疲れを補うため、戒律に昼寝を取り入れた。彼が長老であった間、修道院の回廊が増設され、銀の[[聖餐杯]]<ref>[[:en:Chalice (cup)|chalice]]、[[聖餐]]の際にワインを注ぐ祭具。</ref>と銀の行列用十字架<ref>processional、宗教的な行列に使われる、杖の先に十字架がついた祭具。[[:en:procession]]参照。</ref>が購入され、書庫の本が増やされた。