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=== 独立 ===
[[建元 (前秦)|建元]]19年([[383年]])に前秦が[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で敗退、国内の各部族での影響力が弱まると、翌建元20年([[384年]])に叔父の[[慕容垂]]が河北で叛乱を起こした。前秦から北地長史に任じられていた慕容泓はこの報を聞くや、即座に[[関東 (中国)|関東]]の鮮卑部族を集結させて前秦の強永を破って[[都督]][[陝西省|陝西]]諸軍事、[[大将軍]]、[[雍州]][[刺史|牧]]、済北王を自称し、慕容垂を呉王と表奉した。当初は前燕の故地に戻り、慕容垂への帰順を考えたが、苻叡が討伐に向かっていることを聞くとその地を棄てて西の故地に戻りたがった。しかし前秦の苻叡は[[姚萇]]の西進させようという反対を聞かずに長安から東へ進む慕容泓を攻撃した。慕容泓は苻叡を撃破すると西進した。弟の[[慕容沖]]も前秦から独立していたが敗走して慕容泓と合流した。
 
=== 西燕成立 ===
慕容泓は長安の前秦皇帝[[苻堅]]に、兄の慕容暐を送れば関中を去って前秦を侵さないことを約束した。苻堅は慕容暐を召し出して追及したが慕容暐が忠誠を誓ったために助命した。さらに慕容垂、慕容泓、慕容沖に降伏を促す手紙を書かせた。しかし慕容暐は同時に密かに慕容泓に使者を遣わした。その使者が言うには、大業を建てることにつとめ、苻堅が慕容暐を処刑したら皇帝を名乗るように、ということであった<ref>『資治通鑑』「晋紀」巻105:「暐密遣使謂泓曰:『吾籠中之人,必無還理;且燕室之罪人也,不足復顧。汝勉建大業,以吳王為相國,中山王為太宰、領大司馬,汝可為大將軍、領司徒,承製封拜,聽吾死問,汝便即尊位。』」</ref>。慕容暐が死んで慕容泓が長安に進み、[[燕興]]と改元することで実質的に西燕が成立した<ref>『資治通鑑』「晋紀」巻105</ref>。
 
西燕が成立して間もなく、慕容泓が法に厳しく、慕容沖の方が徳望があると信じて擁立しようとした[[高蓋]]などにより殺害された。死後、慕容沖によって粛宗の[[廟号]]と烈文皇帝の[[諡]]号が追尊された。