「カスペの妥協」の版間の差分

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{{複数の問題
| 出典の明記 = 2017年1月
| 参照方法 = 2017年1月
| 脚注の不足 = 2017年1月
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[[ファイル:Ferran d'Antequera al retaule Sancho de Rojas (detall).jpg|right|thumb|200px|王冠を授かるフェルナンド1世、[[プラド美術館]]蔵]]
'''カスペの妥協'''([[スペイン語]]:Compromiso de Caspe、[[カタルーニャ語]]:Compromís de Casp)は、[[1412年]]に[[カスペ (スペイン)|カスペ]]で成立した、[[アラゴン王国]]、[[カタルーニャ君主国]]、[[バレンシア王国]](これらは[[アラゴン連合王国]]を構成する)の各国代表による決議およびその合意内容のこと。これは1410年に[[バルセロナ家]]のアラゴン王[[マルティン1世 (アラゴン王)|マルティン1世]]が後継者を定めないまま没した後の空位を解消するためのもので、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王子であった[[トラスタマラ家]]の[[フェルナンド1世 (アラゴン王)|フェルナンド1世]]が後継者に選出された。
 
== 概要経緯 ==
=== 背景 ===
当時の[[アラゴン連合王国]]には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄[[フアン1世 (アラゴン王)|フアン1世]]に娘[[ヨランド・ダラゴン|ビオランテ]]がいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ]]女王が[[ナバラ王国|ナバラ]]にいた[[ヒメノ朝|ヒメノ家]]の同族(ナバラ王[[ガルシア6世 (ナバラ王)|ガルシア・ラミレス]]ら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子[[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]の王位継承によって[[バルセロナ家]]がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの[[同君連合]]はこの時に成立していた。
 
アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ]]をないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世は[[イベリア半島]]へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。
 
=== 合意までの過程 ===
各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、[[アルカニス]])、彼らは[[サラゴサ]]近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
*[[ウエスカ]][[司教]]ドメネク・ラム
*( ):アラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王位の継承順(対立王を除く)
 
== 脚注 ==
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<references/>
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== 参考文献 ==
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* 立石博高 編 『新版世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』(山川出版社、2000年)
* 北原敦 編 『新版世界各国史15 イタリア史』(山川出版社、2008年)
* M.ジンマーマン、M.=C.ジンマーマン 『カタルーニャの歴史と文化』(田澤耕訳、白水社・文庫クセジュ、2006年)
* 田澤耕 『物語 カタルーニャの歴史』(中公新書、2000年)
 
== 関連項目 ==
*[[アラゴン連合王国]]
*[[バルセロナ家]]
*[[トラスタマラ家]]
 
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