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承和12年([[845年]])、自身の[[更衣 (後宮)|更衣]]であり子([[貞登]]、当時は源登<ref>属籍を剥奪され出家。文徳天皇の治世に賄料が与えられるようになったがその後も冷遇され、天皇の薬の[[毒見]]役などをしていた。[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])に兄弟親王らの上奏により還俗したのちも「源」姓に復帰できず、「貞」姓を与えられた。</ref>)をも成した[[三国町 (更衣)|三国町]]と、[[女御]][[藤原貞子]]の弟で自身の幼少期からの側近の[[藤原有貞]]の[[密通]]を疑い、地方官に左遷する<ref>有貞は文徳天皇治世の[[仁寿]]2年([[852年]])に中央に復帰。</ref>。
 
嘉祥3年([[850年]])[[3月19日 (旧暦)|3月19日]]に病により、文徳天皇に譲位。[[太上天皇]]位に就くことなく、2日後の同年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]に[[崩御]]。
 
[[天皇]]は幼少時から病弱であったとされ、『[[続日本後紀]]』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば[[薬]](丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。また、『[[三代実録]]』の[[藤原良相]]の薨去の記事では、天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。『続日本後紀』嘉祥3年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事があり、既に重病であった自分の姿を見せないように御簾で隠して議論を聞いていたことが伺える(天皇はその1か月後に崩じている)<ref>川尻秋生「陣定の成立」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1268-3</ref>。