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{{Infobox 哲学者
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=== 誕生~少年期===
1757年、カバニスはフランス中南部[[リムーザン]]地方コレーズ県<ref>コレーズ県はカバニスが生まれた時にはまだなくフランス革命の時に新設された.この地帯は[[オック語]]方言のリムーザン語が日常言語であるなど独特の風土であった。[[コレーズ県]]</ref>の片田舎コスナック村<ref>[http://ja.db-city.com/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9--%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%9C%8F--%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA%E7%9C%8C--%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF DBcity.com<コスナック>]</ref>で生まれた。父ジャン·バティスト・カバニス<ref>[[:fr:Jean Baptiste Cabanis]]</ref>)は地元名門の農園主、農学者だった<ref name=t>{{harv|『哲学の歴史6』|村松正隆(執筆)|2007|pages=577-580}}</ref>。カバニスが6才のころ父はリムーザンの首都[[リモージュ]]の地方代官としてパリから来た重農主義・啓蒙主義経済学者[[ジャック・テュルゴー]]と親交を結んだ。<br />
カバニスは8才のとき母親を失い、隣町[[ブリーブ]]の神父に預けられて神学校に通わされたがその厳しさに適応できず退学した<ref name=k>{{harv|西迫大祐|感染症の法と歴史.|work=<第7章:カバニスと公衆衛生>(伝記部分)|2013|pp=126-127}}</ref>。神学校を退学したあと一年近く家で過ごしていたカバニスは、父のはからいでパリにいる父の友人テュルゴ-のもとに預けられた<ref name=f>[[:fr:Pierre Jean Georges Cabanis]]</ref>。
ティルゴーは詩人{{仮リンク|ジャン=アントワーヌ・ルーシェ|fr|Jean-Antoine Roucher}}に家庭教師を依頼し、彼にカバニスを預けた。カバニスはルーシェのもとでカバニスは詩作やホメロスの詩の翻訳などの文学研究に打ち込んだ<ref name=f />。[[File:AnneCatherineHelvetius.jpg|thumb|left|175px|エルヴェシウス夫人]]
 
=== エルヴェシウス夫人のサロン===
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=== フランス革命===
カバニスが医学生となってから新進医師として活動を始めた頃までころ間に、啓蒙思想・百科全書派の大物の死が相次ぎ<ref>[1778年]<sub>(没年)</sub>- ルソー、ヴォルテール。[1780年]-コンディヤック。[1781年]-テュルゴー。[1783年]-ダランベール。[1784年]-ディドロ。[1785年]-[http://www.furugosho.com/precurseurs/mably/mably.htm マブリ(コンディヤックの実兄)])</ref>、エルヴェシウス夫人のサロンは百科全書派の他に、カバニスと並んで観念学派(イデオロジスト)の中心人物となる[[デステュット・トラシー]]、フランス革命の指導者の一人になる[[エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス|シエイエス]]などが、以前カバニスが病気療養していた離れに集り<ref name=k />、[[コンドルセ]]夫人ソフィーのサロンなどと並んで革命前後の代表的なサロンとなっていた<ref>{{harv|哲学史を読む <Ⅰ>|松永澄夫|2008|p=32}}</ref>。世代的の近い思想家たちと交流しながら、カバニスは医学と哲学との結びつきについて考えを深めていった。1789年のバスティーユ襲撃をきっかけにフランス革命が全土にひろがり革命政府が樹立されると、エルヴェシウス夫人のサロンはますます重要な位置を占めるようになっていった<ref>"「朝はミラボー家、昼は国民議会、夜はエルヴェシウス家」で会議が続けられる。"(『感染症の法と歴史』西迫大祐(2013)。p.127)</ref>。そういった状況のなかでカバニスはフランス革命初期の中心的主導者[[オノーレ・ミラボー|ミラボー]]<ref>ミラボーは[[バスティーユ襲撃]]の翌日に行われたバスティーユ解体作業の際に行われた儀式でつるはしを打ち込んだ(次につるはしをふるったのは『フィガロの結婚』の作者[[ボーマルシェ]])『哲学史を読む <Ⅰ>』p.31</ref>と交流を深め、ミラボーの演説―とりわけ公共行政に関する演説にはカバニスの影響が強かった<ref>1.同前書,同頁。2.『哲学の歴史6』(2007)で村松正隆は「ミラボーの演説の多くはカバニスが書いたとみなされている」としている(p.578)</ref>。カバニスも含めイデオロジストたちは立憲君主制支持者のミラボーと親和性のある、穏健な立憲共和制主義者が多かった<ref>トラシーは王政復古の時、爵位を復活した。同前,p582</ref>。
 
=== 恐怖政治===
盟友ミラボー1791年に死去し、対外的な[[フランス革命戦争]]、王家・王党派の反乱、民衆の暴徒化といった動乱の中、革命政府内でも派閥闘争が激化する。
[[File:Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel (19 c., priv. coll).jpg|thumb|Pierre-Jean-George Cabanis by Blondel]]
1793年に[[革命裁判所 (フランス革命)|革命裁判所]]が設置されて[[恐怖政治]]の時代が始まると、カバニス自身は嫌疑を受けながら逮捕は免れたが、貴族・ブルジョワ階級を基盤とするイデオロジストたちは[[ジャコバン派]]の糾弾を受けた。
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=== 晩年(第一帝政期)===
ナポレオンが独裁色を強めていくにつれ、カバニスを含めイデオロジストたちとの間は冷えていった。ナポレオンは戦争用の実学重視方針とイデオロジストの勢力を弱める意味もふくめて、[[1803年]]国立学士院の「倫理・政治の科学クラス」を廃止した。トラシーはこれによって籍を失ったが、カバニスは復活・設置された[[アカデミー・フランセーズ]]に籍を得た<ref>「恐怖政治の推進者と違ってナポレオンは科学者を重要視した。観念学派は嫌ったけれど。」{{harv|哲学史を読む <Ⅰ>|page=40}}</ref>。[[File:Tombe Cabanis (2), Cimetière d'Auteuil, Paris.jpg|thumb|45px|left|<small>カバニスの墓(オートゥイユ墓地)</small>]]しかし[[1804年]]ナポレオンが皇帝となり[[フランス第一帝政|第一帝政]]になるとイデオロジストたちの政治的な影響力は完全に失われた。
晩年のカバニスの思索はもはや著作や講演録ではなく手紙によって窺えるのみである。 1808年5月5日、カバニスは脳出血により死去した。遺体はフランス革命後に偉人の墓所と定められた[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に埋葬された。<ref name=t />
 
 
== 医療行政==
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イデオロジーが目指す「諸学の統一」と「人間の幸福」においてカバニスの思想の中心にあるのは医学=生理学である。<ref>{{harv|<現われ>とその秩序|村松正隆|pages=14-18}}</ref>
 
「19世紀はカバニスの精神と肉体の関係論とともに始まったとさえ言われる」<ref name=ni>{{harv|西尾治子|2014|page=95}}</ref>、など近年はというカバニス評価が盛んは、「現代医学は、その生誕期を十八世紀末の数年間、と自ら規定した。」という[[ミシェル・フーコー]]のことばと軌を一にする{{sfn|ミッシェル・フーコー|1969|page=5}}
{{Cite book|和書|author=|editor=|date=|title=|translator=|publisher=|page=|isbn=|NCID=|ref=harv}}
19世紀の政治家・哲学者のシャルル・ド・レミュザ([[:fr:Charles de Rémusat]])は、カバニスの心身関係論を次のように説明している。
「カバニスにおいては、胃が食物を消化するように、脳が思想を消化する。かくして思想は分泌する」<ref name=ni /><ref>フランス語版ウィキソース原文: "([[s:fr:Cabanis (Ch. de Rémusat)|『カバニス』シャルル・ド・レミュザ,1844年]]" - " [[s:fr:Page:Revue des Deux Mondes - 1844 - tome 8.djvu/337]]")</ref>。
実際のカバニスの文は以下のとおりである。
{{bquote|緒印象は脳に到達すると、脳を活動状態に置く。これは栄養物が胃に到達すると、胃液の大量の分泌と消化を促進する運動を引き起こすのと同じようなものである。脳の固有の機能とは特殊な緒印象を知覚し、これらに記号を付与し、様々な緒印象を結びつけ、これらを相互に比較し、そこから判断と決定を引き出すことであるが、それは胃の機能が胃の活動を促進する栄養物に働きかけ、それらを分解し、その分泌するものを我々の本性と同化させるのと同じことである。(略)
{{quote|肉体的なものと精神的なものはその源泉において混ざり合う、あるいはよりよく言えば、精神的なものは、より特殊ないくつかの視点から考察された肉体的なものに他ならない。|村松正隆訳<ref>{{harv|村松正隆|2003|『感覚性・共感・模倣-カバニスの人間学を巡って-』|page=109}}原著( Euvres Philosophiques de Cabanis. <1956.PUF>、p.142)</ref>}}
脳はなんらかの緒印象を消化するのであり、脳は有機的に思惟を分泌する|||『心身関係論』村松正隆訳|{{sfn|方法としての習慣|村松|p=118}}}}
 
こういった思惟と肉体との関係に対する認識は、デカルト以降の心身を分離した上でその関係を考察する型の二元論からの訣別である。またそれは同時代のカント<ref>『純粋理性批判』の初版発行は1781年.</ref>が展開した、すべての経験的認識を越えたア・プリオリ([[先験性]])を設定する批判哲学(これに対し観念学派はコンディヤック由来の''分析哲学''といわれる)の形而上学と正反対のペクトルを示していた<ref>フーコー『言葉と物』pp.260-262.フーコーはこの同時代の批判哲学と観念学派は「表象」をめぐって同じ土俵の上にあり、『どれほど異なっていようと(略)両者(''カントと観念学派'')は表象の相互関係という同一の点に適用される』とし両者のあいだには『確実な照応関係がある』としている.*<small>()内は引用者</small></ref>。
 
 
{{quotequotation|肉体的なものと精神的なものはその源泉において混ざり合う、あるいはよりよく言えば、精神的なものは、より特殊ないくつかの視点から考察された肉体的なものに他ならない。|村松正隆訳<ref>{{harv|村松正隆|2003|『感覚性・共感・模倣-カバニスの人間学を巡って-』|page=109}}原著( Euvres Philosophiques de Cabanis. <1956.PUF>、p.142)</ref>}}
 
カバニスの哲学や研究の根本にあるのは「感覚性」に関するカバニス独自の解釈である。
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<>{{}}
 
 
 
カバニスのこういった観点からなされた生理学的なアイデア・研究は現代の学者や医学史家によって再評価されている<ref>{{harv|Theodore L. Sourkes|1996}},{{harv|Turgeon、Whitaker|2000}},{{harv|Mariana Saad|2006}},{{harv|Sandra Caponi|2009}}など.</ref>。
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*{{Cite book|author=Pierre-Jean-Georges Cabanis|date=2013|title=Consultez l’extrait Commander Lettre, posthume et inédite de Cabanis à M. F*** sur les causes premières [http://www.hachettebnf.fr/lettre-posthume-et-inedite-de-cabanis-m-f-sur-les-causes-premieres-9782012826786] |publisher=Hachette Livre BNF}}
 
カバニスの著作は、医学史と医学教育に関するもの、医療的なもの(心理学や生理学)、文学・哲学・政治に関するものの3種がある。<ref>以下はフランス語版wikisource:[https://fr.wikisource.org/wiki/Auteur:Pierre-Jean-Georges_Cabanis カバニスの項]および{{Cite book|和書harv|author=ミッシェル・フーコー|date=1969|title=臨床医学の誕生|translator=神谷美恵子|publisher=みすず書房|editioinr=6|page=|ASIN:B000JA24P0|ref=harv}}(原註とその和訳)による.</ref>
* ''Serment d'un médecin'' (1789年)
* ''Observations sur les hôpitaux'' (病院に関する観察) (1790年). <small>([http://194.254.96.52/main.php?key=ZnVsbHw3NjEwNnx8 Texte intégral].)</small>
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== 参考文献==
(発行順)
*{{Cite book|和書|author=ミッシェル・フーコー|date=1969|title=臨床医学の誕生|translator=神谷美恵子|publisher=みすず書房|editioinr=6|page=|ASIN:B000JA24P0|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=Theodore L. Sourkes|date=1996|title=Light and enlightenment: Cabanis, ideology, and the role of phosphorus in the brain.|journal=Journal of the History of the Neurosciences|volume=5|issue=3|pages=254-64|publisher=|PMD=11618745 |url=http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/09647049609525674|accessdate=2017-1-20|ref=harv}}{{オープンアクセス}}
*{{Cite journal|author=Turgeon, Yves、Whitaker, Harry A|date=2000-6|title=Pierre Jean Georges Cabanis (1757-1808): An early nineteenth century source for the concept of nervous energy in European behavioral neurosciences|journal= Brain and Cognition|volume=43|issue=1-3|pages=412-7|publisher=|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10857737|accessdate=2017-1-21|ref=harv}}
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==外部リンク==
*{{Cite web |author= |date= |url=http://www.academie-francaise.fr/fragments-dune-traduction-de-liliade-mise-en-vers-francais |title=Pierre-Jean-Georges CABANIS |work= |publisher=Acaďemie française |accessdate=2017-1-22 |deadlinkdate= }}
(PDFの場合)
*{{Cite web |date= |url=http://data.bnf.fr/14592963/pierre-jean-georges_cabanis_rapports_du_physique_et_du_moral_de_l_homme/ |title=Rapports du physique et du moral de l'homme | |publisher=BnF|accessdate=2017-1-23|deadlinkdate= }}