「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
{{ルフトハンザ}}
編集の要約なし
26行目:
ハイジャックを実行したのは[[パレスチナ解放人民戦線]](PFLP)だが、その背後には[[ドイツ赤軍]](RAF)の存在があった。ドイツ赤軍(RAF)は、この一月前の9月に起こした[[ハンス=マルティン・シュライヤー]]誘拐事件で、西ドイツ政府に対しシュライヤー解放と引き換えに[[シュトゥットガルト]]のシュタムハイム刑務所に[[収監]]されているRAFの第一世代に属する幹部ら11人の[[釈放]]を求めたが、西ドイツ政府はこれに応じなかった。焦るRAFは西ドイツ政府にさらなる圧力をかけるため、共闘しているPFLPと組んでこのハイジャック事件を起こした。
 
ハイジャック犯のリーダーは西ドイツ政府の全権特使で政治家のハンス=ユルゲン・ヴィシュネヴスキー(Hans-Jürgen Wischnewski)に対し、RAFメンバー11人の釈放と[[現金]]1,500万[[米ドル]]を要求しながら、乗員乗客を人質にして[[キプロス]]の[[ラルナカ]]、[[バーレーン]]、[[ドバイ]]と転々とした。しかしランツフート号はドバイに至るまでにも[[中東]]各国に着陸を拒まれ、ドバイから先は[[アラビア半島]]のどの[[空港]]からも着陸の許可は下りなかった。10月15日、ドバイで、ランツフート号機長のユルゲン・シューマン(Jürgen([[:de:Jürgen Schumann)Schumann|Jürgen Schumann・ドイツ語版]])はハイジャック犯の人数を外部へ交信して知らせることに成功するが、これによってリーダーから殺害の[[脅迫]]を受ける結果となる。
 
ランツフート号は同日ドバイを発ち、交渉にあたっていた西ドイツ政府当局はその行方を見失った。この間、ランツフート号は[[オマーン]]の[[サラーラ]]に向かったが着陸を拒否され、[[南イエメン]]の[[アデン]]に針路を変更した。南イエメン政府も着陸を拒みアデン空港の主滑走路は車両で封鎖されていたが、ランツフート号の燃料は少なくなっていたため、シューマン機長は脇の砂地に強行着陸するしかなかった。無理な着陸による[[降着装置|ランディング・ギア]]の損傷がないか調べるため、機長はハイジャック犯を説得して短時間機外に出る許可を与えられた。
 
しかし車輪の検査後も機長はすぐに機内に戻ろうとせず、ハイジャック犯が呼び戻そうと何度も叫んでも飛行機を爆破すると脅してもなかなか戻らなかった。すぐに戻らなかった理由は不明だが、いくつかの報告では、機長は南イエメンの当局者に機内に取り付けられた[[セムテックス]]の位置を通報し、南イエメンの当局者は機長に対して管制塔に留まるよう強要したとしている<ref>[http://www.britains-smallwars.com/SAS/Mogadishu.html Mogadishu Rescue 1977] THE REGIMENT</ref>。機長が最終的に機内に戻りアデンを離陸すると、機長はハイジャック犯らに客席の[[人質]]たちの前へと連れ出された。機長は事態を説明しようとしたが、リーダーに頭を撃たれ殺された(享年37歳<ref>[[:de:Colditz|Colditz(Colditz・ドイツ語)
]]出身、[[1960年]]西ドイツ空軍に入隊、大半を配属された[[ビューヒェル航空基地]]にて過ごし除隊後の[[1968年]]ルフトハンザ航空に再就職している。([[:de:Jürgen Schumann|ドイツ語版]])。</ref>)。
 
中東の酷暑のなかで長時間留まっていたため客室内は高温になり、人質たちの体力は限界に近付いていた。