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[[1943年]]東川小学校卒業、[[北海道函館中部高等学校|北海道庁立函館中学校]]、[[弘前高等学校_(旧制)|弘前高等学校]]を経て、[[1950年]]に[[早稲田大学]][[政治経済学部]]新聞学科に入学する。[[学生運動]]にのめりこみ、一時[[日本共産党]]にも入党した<ref>自身が解説した『歴史劇画 大宰相』の中で、[[吉田茂]]への反発があった旨の発言をしている</ref>。留年の後に、[[1955年]]に[[早稲田大学]][[政治経済学部]]を卒業する。
 
[[東京タイムズ|東京タイムズ社]]に入社し、『東京タイムズ』の[[政治部記者]]として田中角栄と知り合った。[[1962年]]に[[大蔵大臣]]に就いた田中の[[秘書官]]となり、る。[[内閣総理大臣]]在任中とその後の「[[ロッキード事件]]」による逮捕の時期を含め、田中が[[脳梗塞]]で倒れた[[1985年]]まで政策担当の秘書を務めた。田中の病気治療方針などをめぐり、長女[[田中眞紀子|眞紀子]]と対立し<ref>きついリハビリには自宅ではダメだと主張した早坂に対し、眞紀子が二度も角栄を目白の自宅に連れ帰るなどのすれ違いが、両者の間に生じていた。</ref>罷免され、政治評論家に転身した。
 
田中角栄の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。テレビ番組では、[[報道番組]]の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。[[冠番組]]として、政財界要人との対談番組『茂三の渡る世間の裏話』([[テレビ朝日]])があり、30分の生放送で司会を務めた<ref>自著『オヤジの知恵』(1999年、集英社インターナショナル)の中で、[[松野頼三]]から「テレビは印象七分で中身が三分、ラジオは中身が七分で印象が三分」とアドバイスされ、出演を重ねるうちに「結論を先に言って、その後に簡潔な説明を二つ三つ」と出演者に注文するようになったことを明かしている。また田中角栄も、「用件は初めに結論、理由は二つ三つを箇条書きに」と要求していて、早坂もこの方式がテレビ番組で役立ったという。</ref>。
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*[[1993年]]の[[第40回衆議院議員総選挙|総選挙]]で眞紀子が初当選したときに、選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃんおめでとう」とねぎらいの言葉をかけたが、ピンマイクが外れて聞こえないふりをされている。
*[[1999年]]5月、因縁の深い[[全日本空輸|全日空]]機の離陸時に、リクライニングを倒したままだったので[[スチュワーデス]]に元に戻すように促されたが、「これぐらいなら大丈夫」と抵抗した。最終的にはリクライニングを元に戻すことで折り合ったものの、出発が大幅に遅れた。この事件については、新聞でも報道され<ref name>「政治評論家・早坂氏、座席「倒す」「戻して」大もめ 飛行機遅れる」『朝日新聞』1999年5月15日夕刊。</ref>、マンガでも扱われた。
*1999年にフジテレビの「[[平成日本のよふけ|日本のよふけ]]」(後に、「平成日本のよふけ」)に出演したのを皮切りに、同年から2001年までの3回、同番組のスペシャルに出演した。この各回では、元[[警察]][[官僚]]の[[佐々淳行]]<ref>早坂と佐々は同い年。また、佐々の警察官僚時代以来の[[上司]]である[[後藤田正晴]]は、早坂の使えた田中角栄の懐刀でもあった。</ref>や[[作家]]の[[小田実]]と共演している。
*[[2000年]]11月の[[加藤の乱]]について、「平成日本のよふけ」スペシャルの中で、早坂自身も参加していた会合において倒閣宣言をしながら失敗に終わった[[加藤紘一]]を「自作自演のうちにあっという間に鎮圧された」「度胸ゼロ。[[東京大学|東大]][[法学部]]出身の悪い例」などと酷評している。
*[[2001年]]に[[TBSテレビ|TBS]]の『[[ここがヘンだよ日本人]] [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]田中眞紀子特集』にゲスト出演したが、「田中眞紀子」紹介のVTR後、眞紀子に対する自分のコメントを聞かず、やたら野次を飛ばす外国人出演者たちの態度の悪さに感情を露に怒っている。
*2001年5月に[[テレビ東京]]の『[[女と愛とミステリー]] [[Wの悲劇#テレビドラマ(2001年版)|Wの悲劇]]』に和辻与兵衛役で出演する。