「エルヴィン・ロンメル」の版間の差分

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ロンメルは捕虜に対して国際法を遵守して非常に丁重であった。捕虜となった[[デズモンド・ヤング]][[准将]]は戦後ロンメルの伝記を著作するまでも心酔しており、またその著作は映画化された(邦題:砂漠の鬼将軍)。<br>
1941年にロンメル暗殺を企図して砂漠のドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国[[コマンド部隊]]の死者を丁重に扱った。以後もコマンド部隊の殺害を命じたヒトラーのコマンド命令を無視していた。国際法の遵守を最後まで通し抜いた彼の騎士道精神は賞賛されるべきであり、英国の[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]首相に「ロンメルは聖者だ」と言わしめた程である。
 
また、彼は幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に自身が軽飛行機に搭乗して敵情を偵察したり、宣伝大臣[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]からプレゼントされたカメラを愛用して多くの戦場写真を残した。子息のマンフレートによると元々写真撮影が好きで、欧州やアフリカで数千枚の写真を残した。同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。彼自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。
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==生い立ち==
ドイツ南部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の[[ウルム]]から約50kmに在る小さな町ハイデンハイムで[[プロテスタント]]系の高等学校々長のエアヴィン・ロンメル(シニア)とヘレーネ・フォン・ルツの次男として生まれた。<br>
ロンメルには二人の兄弟カールとゲアハルトと妹ヘレンがいた。彼は後に幼年期を回想し「私の幼少時は非常に幸福だった」と述懐している。ロンメルにはエンジニアになる希望があったが、父親に教師か陸軍士官になれと選択を迫られ、[[1910年]]に[[ヴュルテンベルク王国]]の第124歩兵連隊に入営、プロイセン王国の[[ダンツィヒ]]王立[[士官学校]]に送られた。
 
ロンメルは[[ダンツィヒ]]の[[陸軍士官学校]]時代の[[1911年]]にルーシー・モリンに出会い、[[1916年]]に結婚する。<br>
[[1928年]]に息子のマンフレートが生まれ、マンフレートは戦後[[シュトゥットガルト]]の市長を長年務めた。<br>
 
1911年11月、ロンメルは士官学校をに卒業し、1912年1月に[[少尉]]として任官した。後年、歴史家のジョン・ビーアマンとコリン・スミスは、ロンメルが[[1912年]]にヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間にゲルトルートという名の娘をもうけたと研究発表している。
 
[[第一次世界大戦]]中にロンメルはルーマニア、イタリア、フランスの各戦線に従軍し、三度の負傷で一級および二級[[鉄十字|鉄十字章]]を授章した。さらに彼はイタリア北東部の山岳戦で多くの捕虜を取る著しい功績を挙げ、[[1917年]]12月に最高位勲章[[プール・ル・メリット勲章]]を授章し、その年の最年少授章者となった。[[1915年]]に彼は[[中尉]]に昇進した。
 
第一次大戦後、[[ヴェルサイユ条約]]により10万人に限定された陸軍に選び残されたロンメルは、[[ドレスデン]]歩兵学校([[1929年]] - [[1933年]])、[[ポツダム]][[歩兵学校]]([[1935年]] - [[1938年]])の教官を務めた。<br>
[[プール・ル・メリット勲章]]を授章した山岳戦の経験を著した『歩兵攻撃(''Infanterie greift an'') 』は[[1937年]]出版され、50万部を売り切った。[[アドルフ・ヒトラー]]も読者であった。<br>
[[1938年]]には大佐に昇進し、ウィーン郊外のマリア・テレジア女王の名を冠する[[陸軍士官学校]]([[:de:Theresianische Militärakademie|de]])の校長に任命された。[[1939年]]には総統大本営警護大隊(F&uuml;hrer-Begleitbataillon FHQ)の指揮官に任命されて、[[ポーランド侵攻]]では前線近くに停められた総統専用列車「アメリカ」の警備にあたった。彼は[[ポーランド侵攻]]前の[[8月1日]]に遡及して[[少将]]に昇進した。
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'''アフリカ'''
[[北アフリカ戦線]]では、[[ドイツアフリカ軍団]]を指揮して[[大将]]に昇進、歩兵が防御し装甲師団が迂回包囲する「一翼包囲攻撃」を多用し、寡兵で連戦連勝を続け、ドイツ軍史上最年少で[[元帥]]に昇進した。[[エル・アラメインの戦い]]で敗北後、アフリカを離れる。
 
'''ノルマンディー'''
[[1943年]]半ば以降はドイツ西方軍のB[[軍集団]]長としてノルマンディーに展開して連合軍の迎撃準備に専念した。上陸時の水際で撃滅することが肝要であると訴え、上陸第一日を「最も長い日(The longest Day)」と呼んだが、英米の航空戦力を評価しない上層部は、上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を優先するが、[[1944年]]の[[ノルマンディー上陸作戦]]時には敵の制空権下の味方の装甲師団の活動は大きく制約され、有効な反撃を出来なかった。
 
==ヒトラー暗殺計画==
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*Heinz Werner Schmidt(部下):''With Rommel in the Desert'', Albatross Publishing, 1951
*デズモント・ヤング(英軍捕虜、直接ロンメルと話したことがある):『ロンメル将軍』、清水政二訳、月刊ペン社、1969年
*[[パウル・カレル]](戦史研究者):『砂漠のキツネ』、松谷健二訳、フジ出版社、1969年
*Heinz Werner Schmidt(部下):『ロンメル将軍(原題:With Rommel in the Desert)』、清水政二訳、[[角川書店]]、1971年
*Heinz Werner Schmidt(部下):''Mit Rommel in der Wüste'', Argus-Verlag, München